行間を読む 122 児島から児島半島へ

すでに築かれていた干拓地に淡水を供給するために締切堤防が造られたことについて、今回の散歩で頭の整理ができました。

 

その児島湾締切堤防の「堤防道路」を読むと、1974年に「堤防完成から15年を経て無料開放が実現した」と書かれていました。

ということは、1960年代、子どもの頃に叔父叔母に連れられて通過した記憶がうっすらとあるのですが、あの時にはまだ有料道路だったようです。

 

「堤防道路」にはその有料から無料化への経緯が書かれています。

当初の計画では、締切堤防の用途には農業用水確保のほか、国鉄宇野線の短絡線と岡山市玉野市間の短絡道路とすることが盛り込まれていた。しかし鉄道と道路は計画段階で放棄され、農林省が土地改良法に基づいで行う単独事業となった。農業用水専用の堤防となったことで、干拓農家組織である児島湾土地改良区が、締切堤防に加えて湖岸堤防の管理も単独で行う必要が生じた。改良区は管理費を捻出するため、締切堤防に(農業用水とは関係ない)道路を作るのであれば有料道路とすることを主張した。一方で改良区以外の関係者は、堤防は国の事業による公共の財産であるとして無料開放を主張した。

 

堤防完成から2年間の協議の末、1961年から有料道路として供用開始、しかし堤防完成でそれまで「陸の孤島」だった状態から解放されると期待した郡地区の住民による無料解放運動は高まり、無料突破デモを繰り返すなどの実力行使が行われた。各種選挙でも争点となり、岡山県議会でも協議されたが、岡山県岡山市、改良区のそれぞれの思惑が一致せず、なかなか無料開放には至らなかった。

 

「郡地区」というのは、甲浦郵便局バス停のあたりや八浜のあたりでしょうか。

あの静かで落ち着いた街が、私が子どもの頃に通過した頃はまだまだ「闘争」の真っ只中だったとは。

 

 

*児島から児島半島へ*

 

倉敷周辺には「島」がつく地名が多いのも干拓の歴史からきていることが少しずつ理解でき、そして昨年牛窓を訪ねた帰りに児島の親戚の家から水島工業地帯が左手に見えたのは、島と島の間で遮るものがなかったのだとつながりました。

 

ただ、それ以上「児島」が島だったことについてはわからなかったのですが、今回吉備の穴海というキーワードから、「岡山の風」という岡山の歴史をまとめている個人のブログにたどりつき、そこに児島の歴史が書かれていました。

一方、本州側では、吉井川、旭川高梁川の三大河川から流出した土砂の沖積作用で、潮流が緩やかな島々の間に干潟が発達しました。

奈良時代(8世紀頃)から河口の干潟、低湿地地域を排水改良した小規模な農地開拓が行われました。

が、児島はまだ瀬戸内海に浮かぶ島でした。

 

「吉備の穴海に浮かぶ児島・岡山」という絵図では、南側に大きな「児島」がありました。

この時代はまだ倉敷は小さな島で、現在の岡山市中心部は海のように描かれています。

 

岡山では岡山城下町建設後の1583年、宇喜多秀家による干拓が始まりました。(倉敷市中条辺り)

1618年、現在の倉敷市西阿知から粒浦辺りの干拓により児島湾は陸続き(児島半島)となり、西側が阿知潟、東側が静かな入海「児島湾」になりました。

 

「阿知潟」、あの海上交通の守護神を祀った倉敷の駒形山にある阿智神社とつながりました。

 

 

ところでこの児島半島を行政地区で見ると東側は岡山市、真ん中は玉野市、そして西側は倉敷市に分かれているようです。

児島半島先端にある郡地区は、この締切堤防道路がなければ岡山市内から他の市を越えてぐるっと迂回することになるので、たしかに「陸の孤島」といえそうです。

 

そういえば「瀬戸」の意味を調べていた時に、児島が児島半島になったことや、締切堤防などによって潮流が穏やかになったという記述を見つけました。

郡地区のあたりは潮流が速かったのでしょうか。

 

 

吉備の穴海の時代から干拓によって陸続きになり、そして締切堤防でつながった。

子どもの頃に見ていた風景は、今更ながらにすごい変化だったのだと思い返しています。

 

 

 

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