記録のあれこれ 40 好ましいことも好ましくないことも記録する

5月に八郎潟を訪ねた時に、干拓地の中心部までは大潟村コミュニティバスを利用し、帰りは船越駅までタクシーを利用しました。

タクシーの運転手さんが私より一回り上の世代のような印象でしたので、干拓前の風景をご存知かもしれないと質問しました。

干拓前はたくさん魚が獲れたのですか?」と。

 

こういう質問は慎重にする必要があることを、90年代に東南アジアのODA(政府開発援助)の予定地や国内の大型公共事業の現場を訪ねるときに学びました。

私が「正しい」と思う考え方が少しでも言葉の端にでれば、相手の心は閉ざされてしまい、その葛藤を知ることはできなくなります。

その時代のその当事者でなければわからない、またひとくちに「当事者」といってもさまざまな事情と判断があるという当たり前のことに、こちらの信念を抑えて耳を傾けるというのは本当に難しいことです。

 

さて、運転手さんの答えは「え〜?フナとか鯉ぐらいしかいなかったんじゃないかな」というあっさりしたものでした。

 

でも私はこの目の前の方がどんな人生を送られてきたのかは全く知らないので、この一言も言葉どおりに鵜呑みにしてもいけない、それも90年代の経験から学びました。

そこにはもしかしたら、もっと深い、干拓地への思いとか記憶があるかもしれませんからね。

 

私が知りたかった「八郎潟が地元の漁業へどのような影響を与えたのか」という事実には、そうそう簡単にはたどり着けないことはわかっていました。

 

目の前に広がる広大な干拓地をぐるりと囲んでいる残存湖には、どれくらいの魚がいるのだろう、どうやってそれを調べるのだろう。いつその答えに私が出会うのだろうと思いながら、八郎潟を後にしました。

 

八郎潟・八郎湖の一世紀の魚類の記録*

 

ところが偶然にも、「八郎潟・八郎湖の魚」が5月末に出版され、その中には130種類もの魚の写真と説明がありました。

干拓による影響か、見かけなくなった魚もいるようですが、現在は100種類ぐらいだそうです。

あの静かな湖面の下には、こんなに豊かな世界が広がっていたのかと少し驚きました。

そしてどうやって調べたのだろうと。

 

八郎潟時代の魚類に関する資料に、秋田県水産試験場による1916(大正5年)9月発行の「八郎潟水面利用調査報告書」がある(秋水試,1916)。これは「第1編 理化学的調査」、「第2編 生物学的調査」、「第3編 漁業調査」からなる118ページのもので、約100年前にここまでの調査を行ったことに驚かされる。

 

戦後は「八郎潟調査研究資料第1号」(秋水試,1953)が出され、その中で「八郎潟の根本的調査研究を開始」(水野,1953)および「八郎潟調査研究第3号」(秋水試,1954)が出され、その後の調査・研究の充実が期待された。しかし、1957(昭和32)年には干拓事業が開始され、その前後についての調査資料はほとんど見当たらない。干拓により残った水面は、ある意味魚が生息する場所というより、単に、灌漑のための「水がめ」とみていたのだろう。

 

一世紀前の調査の記録があったことで、干拓前と後の変化を知ることができたようです。

八郎潟、八郎湖の名称はどうであれ、そこに生息していた魚類は突然まったく異ったのではなく、その両者は様々な変化をしながらも連続し、一部は絶滅し、一部は国外産や県外産が放流、定着していった。本書では干拓前と後で認められた全ての魚類について、何があったのかという観点からコメントした。 (「はじめに」より)

 

130種類の魚の説明には、絶滅したものもあれば、新たな環境の中で住む場所を変えて生息している種類もあるようです。

素人の私には、「干拓」「環境悪化」「生物の絶滅あるいは減少」という黒のイメージになりやすかったのですが、現実はもっと複雑で多様な変化のようでした。

 

それにしてもあの広大な八郎潟周辺の水辺を観察、調査し続けていらっしゃる方々によって、正確な記録が残されていくのですね。

 

 

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