仕事とは何か  7 <「苦しい疲れたもうやめたでは人の命は救えない」>

NHKに「ドキュメント72時間」という番組があります。テーマが惹きつけられるものだと録画して観ているのですが、9月7日は「海上保安学校青春グラフィティ」でした。


その海上保安学校の学生が着ていたTシャツの背中に書かれていた言葉が、「苦しい疲れたもうやめたでは人の命は救えない」という言葉でした。


本当に。
なんとか私も今まで仕事を続けてきたのは、どこかに同じような思いがあったのではないかと、今まで言葉にならないままきたものがパッと目の前に現れたような気がして、メモをとったのでした。


医療現場も施設や職種によって状況はさまざまですし、同じ看護職でも常にこの言葉を意識して働く必要がある職場もあれば、もう少し緩やかでもよい職場もあるでしょう。


冒頭の言葉から、私自身の三十数年を思い返したのでした。
最初の頃はやはり夜勤がある交替勤務の辛さでした。
徹夜も大丈夫な方でしたが、やはりあの明け方の眠気との闘いの中で正確に仕事をこなしていかなければならないこと、眠い時にも患者さんには悟られないように対応しなければいけないことでした。
最近は、16時間以上の連続勤務で休憩を取れないほどの忙しいときでも、気持ちを切らさずに働くことができるようになってきたので、これも努力の賜物かなと思います。


さらに助産師になってから産科勤務になると、年に何度かは「超、超」がつくほどの「大嵐」の日があって、分娩がいくつも重なり、さらに緊急手術が重なり、急変まで重なるような日があります。
その勤務帯のスタッフだけでは足りずに前勤務帯のスタッフも残り、当直師長が手伝ってくれてもまだ人手が足りずに、突然呼ばれて出勤ということもありました。
とにかくできる限りのことをして、無事に全てのことが終了した時には脱力感とちょっと遅れて安堵感が来るという感じです。
まあ、最近の世の中的にはブラックな働き方ですけれど。


また、24時間体制の勤務ですから、日曜・休日の出勤が当然あります。最初の頃は友人と週末に遊ぶということさえできない仕事をちょっと恨みました。
週末だけでなく、年末年始や夏休み、連休などもまず友人や家族と予定を合わせることは諦める必要があります。そのうち、年末年始に働くのは当たり前、ハッピーマンデーの3連休なんて取れなくて当たり前、休日出勤の方がラッシュに合わなくて楽だし、と気持ちは開き直れるようになりました。
友人と1年に1回ぐらい偶然スケジュールがあって会えたら、すごい奇跡と喜びも倍増です。


体力的なことや気力的なことには耐えられましたが、看護職として辛いことのひとつは、いまだにそうですがこれだけ医療が専門分化している中で、看護職はオールマイティを求められることです。
とりわけ80年代後半からどんどんと医療技術や医療機器が進歩していく中で、それに対する知識がなかなか標準化されないことと、まだ当時は看護職向けのテキストも少なかったので、見よう見真似で使い方を習得していくしかないことでした。
そして、ようやくその診療科に慣れたと思ったら、突然、別の病棟へ配属されるの繰り返しでした。
「自分の知識や技術や経験が不十分なら、目の前の人が死ぬかもしれない」
その恐怖心を抑えて、なんとかついていくしかなかったのでした。


その恐怖心が現実になった時には、もう自分はこの仕事やめた方がよいかもしれないと思いました。
あれから二十数年、「苦しい疲れたやめたでは人の命は救えない」に、いろいろな感情が湧き上がって録画を観ながらちょっと泣けました。




「頑張りすぎない」「無理をしない」ということがようやく言える社会になりつつある時期なので、この言葉はやっと肩の荷を降ろすことができた人を追い詰めてしまうちょっと危険な一面もあるのですが、確かに社会の中にはこういう気持ちを持つことが必要な仕事というものがあるのかもしれません。
それは適性の一つであって、こういう気持ちがある仕事の方が上といった優劣の話でもなく、どの仕事も「お客さんに喜んでもらいたいから」「誰かの役にたちたいから」というときに「苦しい疲れたもうやめた」とならないように、仕事とは自分を律していく必要があるというあたりでしょうか。



「人の命をまもる」仕事というのは、その気持ちをどれだけ維持できるかというあたりも適性の一つかもしれません。
ただ、あくまでも自発的にという話であって、社会や職場から強要されてはいけないのですけれど。



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