水のあれこれ 257 土淵川放水路

私のブログは「地図で見つけた気になる水色の場所をただ訪ねる、せっかく訪ねたのに無謀な計画でしょっちゅう途中であきらめる記録」になりつつあるのですが、読んでくださる方がいてコメントまでいただいて本当にありがとうございます。

 

「弘前城のお堀はどこから来た水か」で歩いた寺沢川について、その岸辺にご実家があるというミルラさんがその歴史を教えてくださいました。(こちらで紹介させていただくことをお許しください。)

寺沢川の洪水位を示した看板の近くで、グラウンドをお見かけになったかと思います。そこは南塘グラウンドといいまして、弘前大学医学部のグラウンドなのですが、かつては「南溜池」または「鏡ヶ池」と呼ばれる溜池でした。藩政時代の地図を見ますと、どうやら茂森町周辺から南塘グラウンドのあたりまで、溜池だったようです。地元民ながら、今の地形からはなかなか想像できない広さです。

洪水後、地形を変更させる大工事が行われました。以降、洪水は起きていません。先週・今週と青森県は大雨でしたが、寺沢川は溢れなかったようです。

 

渓谷のような両岸が高くなった場所を寺沢川沿いに上流へ向かって歩くと、急に開けて高台に弘前大学医学部附属病院があるのですが、その手前のグラウンド沿いを歩いた記憶があります。それほど広くなくて、しかもいかにも余った土地を活用しているかのような形だったことが印象にありました。

 

ミルラさんのお話から、溜池の端だったことがわかりました。南塘(なんとう)町の「塘」は、「つつみ」とも読んで「堤防や土手のこと」だということも初めて知りました。

 

 

*昭和50年と52年の大洪水と土淵川(つちぶちがわ)放水路*

 

ミルラさんの「洪水後、地形を変える大工事が行われました。それ以降、洪水は起きていません」に、何年の洪水なのか、どんな工事が行われたのかと、知りたいことに火がつきました。

 

「寺沢川、弘前、洪水」で検索したところ、「誰も紹介しない津軽」というブログに「土淵川放水路」(2017年4月28日)がありました。

「忘れてはいけない、水害とともに歩んだ弘前の歴史がそこにあります」と、実際に自転車と自動車でその放水路周辺を歩かれた記録が写真と共に掲載されていました。

 

そのブログに、現地にある土淵川放水路の案内板と治水の碑に書かれていることが紹介されています。こういう内容は現地でしか見ることができないものですね。

孫引きのようになってしまいますが、そのまま引用します。

 

土淵川放水路は、総延長3,558メートルあります。

上流から順次に、土淵川分流工396メートル、上流トンネル1,628メートル、寺沢川合流工42メートル、下流トンネル846メートルと続き、二階堰と立体交差した後、開水路646メートルとなって岩木川につながります。

土淵川と寺沢川の水は、水量が少ないときは在来の河道を流れますが、洪水の際には氾濫した水量が自然に分流工と合流工に流れ落ちて岩木川に放流します。

最大洪水量は、土淵川から170立方メートル、寺沢川からは75立方メートル、合わせて毎秒275メートルです。

放水路の建設工事は、昭和53年から始められ、もろい砂礫層と大量の湧水に悩まされましたが、最新の工法を駆使し、3年10ヶ月をかけて昭和57年に完成しました。

総事業費として103億5千万円を投じた施設です。

 

「治水之碑」には以下のように書かれているそうです。

土淵川とその支流寺沢川は、時として怒れる川に変貌し、災害をもたらすことがしばしばあり、近くは昭和五十年と五十二年の大洪水であった。

このことにより青森県は、弘前市民の願いを入れ、国の助成のもとに約二百六億円を投じて放水路建設等の抜本的改修に着手した。

さきに一万八千百メートルの護岸改修工事を終えたが、今ここに土淵川放水路も幾多の悪条件を克服して遂に完成を見るにいたった。

この放水路は、隧道二千四百七十四メートル開水路千八百四十メートルで、土淵川・寺沢川・二階堰等の洪水を岩木川に放流しようとする施設である。

ここに全工事の完成を記念し物故被災者への鎮護の祈りを込めて治水之碑を建立する。

 

昭和五十七年七月二十九日

青森県知事 北村正哉

弘前市長 福士文知

 

 

この大改修の過程で、あのグラウンドも遊水池的な場所として整備されたのでしょうか。

 

 

*樋の口と二階堰川*

 

地図で確認すると、館野と緑ヶ丘の間を流れる土淵川に水色の広い場所があり、北西に向かって確かに取水口のようなものが描かれています。

そのまま北西へとみていくと、寺沢川ふれあい公園にまた水色の貯水池のように描かれている場所があります。

そしてそこをさらに辿ると、私が行きたかった「樋の口」につながりました。

 

となると、最初、弘前城の西濠への取水口ではないかと思ったのですが大きな間違いで、ここが土淵川放水路の出口でした。

ちなみに「といのくち」かと思っていたのですが、「樋(ひ)の口」でした。

 

ただし、このブログによると開水路の横に流れる二階堰川の説明があります。

背後には小川、これが二階堰川です。

水源は岩木川、湯口(ゆぐち)か五所里見(ごしょさとみ)のあたりに取水口があるようです。

二階堰川は弘前城方面へ流れて行き、やがて弘前公園桜のトンネル横の西濠になります。

あの美しい西郷の水源がこちらです。

 

もう一度地図をよくみてみると、樋の口のトンネルから出てすぐの左岸側に、小さな水色の線がこの二階堰川へと繋がっていますから、土淵川放水路の水もお城への水源に使われているのでしょうか。

 

ミルラさんのおかげで、寺沢川についてもっと関心が出て、先人の記録にも出会い、今回の散歩の疑問や地図で見つけた場所の謎がいろいろと整理されました。

 

 

そして、今回の散歩の記録は角館について書いて終了だったはずですが、もう少し岩木川周辺について続きます。

 

 

 

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