コミュニティバスで阿南市医療センターへと向かう時に渡った橋は、取水堰でした。
地図を見直すと、たしかに道路と灰色の線が重ねて描かれていました。
近くにあった「水利使用標識」に「かんがい(一の堰)」と書かれていて、そばに二つの記念碑がありました。
ここがあの「那賀川北岸用水の歴史を考える」に書かれていた「南岸の一の堰」だと、帰宅してからつながりました。
一ノ堰記念碑(*旧字体)
此堰ハ現位置ヨリ三百五十米ノ上流ニアリシガ昭和二十四年ノケイト台風ニ依リ大災害ヲ蒙リシタメ復旧スルコトナリシガ元ノ位置ニテハ富岡町見能林村内ノ耕地七百余町歩の灌漑ト長生村低地部ノ排水二大支障ガアルノデ現位置ニ設置スルコトトナリ昭和二十六年六月十一日起工経費実ニ金三千三百万圓ヲ投ジ昭和二十八年十一月完成セリ
昭和二十八年拾壹月之記
記念碑
吾が尊崇する西宮三石神社は江戸中期より富岡町の産土之神として鎮座し、○々(*読めず)子孫にうけつがれ町の發展と倶に幾星霜を経昭和に至り社殿老朽の為再三修理に務めたが荒廃著しく此度氏子総代の発(*旧字)意に依り氏子一同相図り昭和五十年を記念して茲に鉄筋銅板葺の社殿を造営併せて玉垣の新設を行い富岡町の発(*旧字)展と氏子の繁栄を祈念するものとす
昭和五十年十月吉日
堰についての二つの記念碑と思ったら、一つは三石神社のものでした。なぜ境内ではなく、この堤防の上に設置されたのでしょう。
*阿南市の一の堰*
検索すると、国土交通省那賀川河川事務所防災情報にこの堰の歴史が書かれていました。
一の堰(初代)は1638(寛永15)年につくられた石造りの堰でした。幕府の一国一城の命により富岡城を取り壊した際に、城の石垣の巨石で築きました。
1946(昭和21)年の南海地震及び1949(昭和24)年のジュディス台風により堰の一部が崩壊するなどして取水できなくなったために、徳島県は1953(昭和28)年に一の堰(第2代)を改築しました。
第3代目となる現在の一の堰は1968(昭和43)年に完成し、桑野川下流南岸の阿南市富岡町、見能林町及び才見町などに灌漑用水を供給しています。
「一の堰の位置の変遷」の図によると、県道130号線よりも上流側に初代の堰があり、第二代は現在の堰と取水口の中間ぐらいでしょうか。
偶然立ち寄った取水堰でしたが、江戸時代からの歴史があるものでした。
*ジュディス台風とケイト台風*
石碑には「昭和二十四年ノケイト台風」と記されていましたが、検索するとケイト台風は昭和26年で、昭和24年はジュディス台風のようです。
「四国災害アーカイブス」に「昭和26年のケイト台風」の記載がありました。
昭和26年(1951)7月1日23時頃、台風6号(ケイト台風)が宿毛・土佐清水間に上陸後、県内を通じる間に衰弱したが、雨天続きの後の大雨により被害が増した。日下村一帯は水郷となった。県下の被害は死者1人、負傷者4名、家屋の全壊21戸、半壊167戸、流失10戸、破損52箇所、道路316箇所、船の流失1席、破損3席、田畑の流失12,236町、浸水7,843町に及んだ。(「高知県災害異誌」による)
主に高知に大きな被害が出たようですが、隣接したこのあたりも大きな影響を受けたのかもしれません。
水害が多く被害も多かった時代であり、正確に状況を把握したり記録することもまだまだ難しい時代だったと思うので、人々の記憶が混乱するのも無理はないかもしれませんね。
*「6.29豪雨災害」*
なぜ三石神社の記念碑が境内とは離れた堤防の上にあるのでしょうか。
Wikipediaの桑野川の「歴史」に、1999年6月29日の豪雨についての記録がありました。
1999年6月29日に梅雨前線による記録的な豪雨(6.29豪雨災害)で川が氾濫し、床上浸水48棟、床下浸水194棟、浸水面積215ヘクタールの被害を出した。その後、国土交通省と徳島県が連携し、桑野側復旧等緊急事業に着手した。そして、2002年に桑野側床上浸水対策特別緊急事業にも取り掛かった。
Wikipediaの「6.29豪雨災害」には具体的な徳島県の状況は書かれていないのですが、もしかしたらこの時に三石神社も浸水して記念碑を堤防の上に移動したのではないか。そんな想像をしましたが、事実は如何に。
それにしても各河川事務所のサイトには大事な記録がたくさん書かれていて、参考になりますね。四半世紀前にはなかなか読む機会がありませんでした。
散歩でふと目に入ったことから、少し検索しただけでもその地域のそれぞれの歴史に触れることができるようになりました。
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