運動のあれこれ  23  <「『自己の超越』というブルジョワ的な価値の追求」>

京葉線に乗って猫の街へ行った時に、アクアテイックセンターがどれくらいできたか定点観測も楽しみにしていました。大きな屋根ができたあとは、工事が進んでいる感じは外見からはわかりませんでした。


私が一番最初にあの観客席に座れるのはいつなのかなとあれこれ想像していますが、さまざまな盛り上げ方がなされる国際大会の雰囲気はもういいかなと思っています。国内外のエキスパートな泳ぎを直接会場で観たい反面、あの喧騒は私には向いていなさそうなので、東京オリンピックは録画で観るつもりです。
2007年に千葉国際プールで開かれたインターナショナル・スイムミートは今思えば、落ちついて観戦できた国際大会だっなとなつかしく思い出しています。


十数年前から競泳観戦にはまったのですが、最近、私のように競泳大会を楽しみにして会場に通い盛り上げることはよいことなのだろうか、何か悪い方向へと向かわせていることもあるのではないだろうか、という根源的な問いがあります。
そのあたりは、以前にも過度に一般化された興奮でも書いたのですが、選手の結果に過剰に期待することがその選手の人生をも潰すことになる怖さとでもいうのでしょうか。



<「競技スポーツはいつから『健康』とたもとを分かってしまったのか」>


ドーピングの哲学の「訳者解説」に、その私のもやもやを整理してくれる箇所がいくつかありました。


「競技スポーツを通して健康増進が語られるとき、意図的にないし無意識的に覆い隠されるのは、エリートスポーツがもはや『健康』とはほとんど関係がないという現実である」(p.298)として、以下のような内容が続いています。

 いったい競技スポーツはいつから『健康』とたもとを分かってしまったのだろうか。クヴァルはその発端を、「スポーツ」と「体育」とが分離を始めた20世紀初頭に見出す。心身の健康の促進を目指す近代的な「体育」は、18世紀の啓蒙思想の発明品であり、フランスでは「体育」の語は医師ジャック・バレクセールが1762年に刊行した書物にまで遡るとされる。クヴァルの言うように、「スポーツは、まず教育的なプロジェクトとして出現した」。この体育が古典的な体操から別れて、貴族的・軍事的な価値ではなく、「自己の超越」というブルジョワ的な価値観を追求し始めたときに、スポーツは体育から分離して、独自の発展を遂げるための萌芽が生まれる。

絶えず自己を超越し、「より速く、より高く、より強く」を目指す、近代的な競技スポーツの出現である。

練習を頑張ってよりよい結果を残す。
これに対して微塵の疑問さえないほど競技スポーツはよいものであり、そこに感動を求めているのが今の社会ではないかと思います。



ところが一世紀ほど前に、すでに警鐘を鳴らしていた人がいたことが書かれていました。

「エべルテイズム」と呼ばれる新たな体育法の創業者として知られるジョルジュ・エベールは、1925年の著作『スポーツ対体育』で、体育とは別物になろうとするスポーツの成り行きを憂いている。エベールによれば、常に限界を超えることを目指し、節度を失ったスポーツは、もはや教育的効果を失っている。

 スポーツは、その性質からして常にその先を目指す戦いであるために、理論上は限界がない。有用性、節度、利他主義という、すでに述べた教育的な理由が調整役として作用しないのならば、常により速く、常により速く、あるいはより一般的にいえば、常にその先を目指すという考えに歯止めをかけるものは何もなくなる。このような条件のもとでは、さまざまな種類の危険が懸念される。

 エベール曰く、過度の専門化に走るスポーツ選手たちの中には、自分が専門としない種目になると、子供にすら及ばないことがあるのだという。「一部のスポーツマンが虚弱であると言われるのはなぜかがこれで理解できる」。エベールは、スポーツには病人に似ていると言ってはばからない。

クヴァルやエベールという人も初めて知りましたし、行間には私がまだまだ理解できていない体育やスポーツの歴史があるのですが、今でも古臭さを感じさせない、いえむしろ本質的な何かを感じさせる内容だと思って読みました。


運動の運動はこれからどこへ向かうのでしょうか。




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