気持ちの問題  54 <自分の亡骸をどうするか>

某医学部に献体された父の遺体は、今頃、どうしているかなと時々考えています。
今年の夏は、父にとっては仏教的には新盆ということになるのでしょうが、兄弟も「父はまだ(献体という)仕事中だから」という気持ちで、特別何かすることもありませんでした。


世間体を大事にすればさまざまな準備をする必要があるのでしょうが、兄弟もそのような気持ちでいることを直前になって知り、ちょっとホッとしました。
お骨になって戻ってきたら供養をしようということで、一周忌は静かに過ごしました。


時々、金属製の台に横たわっている父の遺体が目に浮かび、どのあたりまで解剖が進んだのだろう、どんな学生さんたちに囲まれているのだろうと想像しています。
死体とは言わずに遺体という言葉を使うぐらいの差はありますが、それでも死を境にして体への気持ちはクールなものです。


私自身はこの世に形が残らないような方法で自分の体を処理してほしいと思っているのですが、父はどんな思いがあったのかは聞きそびれてしまっていました。



<遺骨を収集する>


1980年代から90年代かけて、東南アジアで3年ほど暮らしたときに、時々、日本から遺骨収集にこられる方々の話を時々耳にしました。


当時はまだまだ第二次世界大戦後の反日感情が根強い時期で、どこへ行っても「あなたのおじいさんやお父さんは、あの第二次世界大戦の時にどこで何をしていたのか」と一世紀という歴史の意味を突きつけられていましたから、あえてその地に乗り込んで遺骨を探して持ち帰るほどの遺体に対する思いに正直なところ驚いていました。


そのうちに、その地域のイスラム教の集落で暮らすようになり、友人から「イスラムでは、亡くなった人の体の全てを大事にする」と教わりました。
それは単に遺体を大切にするということだけではなく、その地域では反政府運動独立運動の中でサルベージされた人の遺体を取り戻すことを意味していました。
残虐な方法で殺された遺体の一部残らず取り戻すことは、それ自体がまた危険な状況に飛び込むことになります。


指一本残らず見つける話を思い出して、遺体に対する強い思いというのは、国や状況に関わらず人の心に根強いことが印象に残りました。


それからしばらくして、90年代終わり頃だったか、父が遺骨収集と慰霊に行ったことを知りました。
実戦には行かなかった父ですが、終戦間際には陸軍士官学校の学生としてある地域には送られていたようです。
その地域とは離れていたところへ遺骨収集へ行った理由が何か、どのような気持ちが父にそういう行動をさせたのかは尋ねることはありませんでした。


当時の私は、東南アジアの日本兵が家や教会に火をつけ、食料を略奪した地域の人たちの側に気持ちがありましたから、そこに日本人の遺骨を拾いに来ることが相容れないものでした。


その父が、自分の亡骸に対して望んだのは献体だけで、どのように葬って欲しいといったことは何も遺しませんでした。


もしかしたらあの遺骨収集に参加したのは、僧侶として仏教的な意味だけでなく、当時の現場の狂気を葬るためであったのではないか。
そんなことを、最近考えています。
もう父に確認はできないのですけれど。




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