水のあれこれ 167 明治用水を歩く

吉良吉田駅から名鉄西尾線に乗り換えて、いよいよ明治用水へと向かいます。

車窓には、矢作川左岸側の広い平地に田畑が広がった風景が続きます。春を待っている美しい水田の風景です。西尾線は旧矢作川矢作川そしてたくさんの川や水路を超えるので、途中下車をしてみたい場所がいくつかありましたが、先を急ぎました。

 

*南安城駅から安城公園へ*

 

どこから明治用水を歩こうかと地図を眺めていたときに、安城公園とその公園にある水色の線に、ふと目がとまりました。

名鉄安城駅で下車し、まっすぐの道を安城公園へ向かって歩きました。

いつもなら、こういうまっすぐな車道を歩くのは疲労感があるのですが、もともと明治用水によって開拓された土地だと思うと、今回は全然苦になりません。

途中の小さな川や側溝も分岐された水路だろうかと、一つも見逃してはいけない気分です。

 

安城神社の先に公園がありました。

整備された遊歩道に、水が流れています。

パソコンの地図では明治用水とは書かれていませんでしたが、途中、「明治用水 東井筋 取水口から15.1km」と書かれていて明治用水の一つであることがわかりました。正解でした。

 

公園の先からは暗渠になって、その上が歩道と自転車道になって北へと続きます。

JR東海道本線の線路をくぐると、その先には玉川上水のように木が生い茂った中を明治用水が流れていました。

そのそばにクラボウの工場があります。地図でそれを見つけたときに、子どもの頃から耳にしていた倉紡ですから、明治用水のそばにあることがうれしい偶然で、ぜひこの横も歩こうと計画しました。

このクラボウ安城工場は、1951(昭和26)年に設立されたようです。当時のこの辺りは、どんな風景だったのでしょうか。

 

明治用水記念館*

 

クラボウの敷地沿いに明治用水の遊歩道を歩き、しばらくするとまた暗渠になる場所から北西方向に大池公園があり、そのほとりに明治用水記念館がありました。

たくさんの資料が展示されていましたが、その中で印象に残ったのが、「明治まで村がなかった」ことと「愛知県内の七つの用水のうち、民間のお金だけで作られたのは明治用水だけ」ということでした。

 

行く前にはWikipedia明治用水をざっと読みましたが、最初のこの箇所でさえ本当に理解できてはいなかったのでした。

明治用水(めいじようすい)は、西三河地方南西部に農業用、工業用の水を供給する用水である。幕末・明治維新期に、全国に先駆けて測量・開削が行われた近代用水だったため、明治という元号を冠するエポックメイキングな命名がされた。大正時代には、農業王国として、中原に位置する安城市が「日本デンマーク」と称して教科書に掲載されるほど、画期的な成功を収めた。安城ヶ原の開発により、10万石以上の収量となった。(当時、岡崎藩が5万石)

 

そして碧海台地を初めて知りました。

かつては安城ヶ原や五ヶ野が原などと呼ばれる原野があり、小規模な開析谷で細々と稲作が営まれていた。台地上は水の乏しかったため、ため池が数多く築かれ、ため池の延面積は488町歩、1町歩以上もある大きなため池は84か所にも上った。

 

幕末には碧海郡泉村(現在の安城市泉町)の豪農である都築弥厚が用水の導入による新田開発を企てるが、既存の権益に固執する農民の妨害などに遭って失敗。幕府から一部の開発許可を得ていたものの、都築は膨大な借金を背負ったまま失意のうちになくなった。明治維新後には岡本兵松が都築の計画を引き継ぎ、別の方法で新田開発を計画していた伊予田与八郎も合流して、愛知県も関与した用水導入の計画を進めた。1879年(明治12年)に着工し、1884年明治17年)に明治用水が完成した。

 

子どもの頃から新幹線でこの三河安城あたりを通過するときには、倉敷の風景と重ね合わせて、昔からの豊かな農業地帯なのだと思っていました。

まさかそこが、私が子どもの頃なら半世紀ほどまえはまだ水の乏しい台地だったとは信じられないほど、広々とした豊かな平野と落ち着いた街に見えましたから。

 

半世紀以上、私は車窓の風景を勘違いしていたのでした。

この歴史を知ることができてよかった。

安堵に近い思いで、明治用水記念館を後にしました。

 

 

 

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