今日のタイトルの場所はどこにあるでしょうか。
正解は、岡山市です。正式には「西川緑道公園」だそうですが、岡山市公園協会にこんな説明がありました。
岡山市を南北に流れる西川沿いの公園。四季折々の草花を楽しむことができる緑道公園は、昭和49年頃から昭和57年度まで9ヶ年かけて、市街地に「緑の回廊」として総延長2.4km、総面積4.0haが整備されました。市中心部を南北に流れる西川用水の両岸を緑地公園として、およそ100種類の樹木約3万8千本を植樹し、春の芽生えから森林浴、秋の紅葉や草花の花壇など、四季の移り変わりが楽しめます。
1974年には整備が始まっていたのですから、日本の近現代の公園の歴史から見ても早い時期だったのかもしれませんね。
さすがに1泊2日の旅行なので計画を立てたのですが、岡山駅に着いて最初の目的地を断念したことから、この西川緑道を偶然見つけたのでした。
午前中、早い時間に岡山駅についたらその足で岡山県立記録資料館へ行って、干拓地の歴史について少し予習をしてから児島湾を廻るつもりでした。地図で見ると駅から資料館までそれほど遠くなさそうだったのですが、いざ歩いて見ると片道20分ぐらいかかってしまいそうです。秋は日が短いですから、先を急いだほうが良さそうです。
あ〜あ、出だしから行き当たりばったりになっちゃったと思いつつ、岡山駅へ戻る途中でこの緑道を見つけたのでした。
豊富な水が流れ少し鬱蒼とした木々に囲まれて、別世界に入ったような場所です。紅葉も美しく、ベンチもそれぞれの人を邪魔しないような配置で置かれていて、のんびりと時間を過ごせそうです。
当日撮った写真を見返しても、水がきれいでゴミもなく良く整備されていることがわかります。
ところどころに小さな水門の跡があったので、きっと昔は用水路として使われていたのかなと思った通り、西川用水だったようです。
どこをどう歩いていても干拓の歴史とつながるのだと、これは幸先の良いスタートでした。
その緑道の途中に、「朝鮮人受難の碑」がありました。
周囲には説明書きがなく、どのような歴史を記録するための碑であるのかわからないままでしたが、これはぜひ、今度こそ岡山県立記録資料館を訪ねて調べてみようと思います。
<後楽園の復元>
二十数年前に、とあることで岡山の後楽園に行ったことがあるので、その時にもこの西川緑道を渡って歩いたはずなのですが、当時は全く意識していなくて記憶にないことが悔やまれます。
あの頃は、玉川上水に関心を持ち始めたとはいえ、関心の範囲も狭いものでしかなかったので、後楽園周辺の水の歴史にも思い至ることがありませんでした。
今、あの頃に戻れたら干拓地を意識してもう少し歩いたのにと、ちょっと残念。
今回は時間がなくて、後楽園を訪れることができなかったのですが、この西川緑道とも繋がっていることを知ることができただけでも収穫だと思いました。
後楽園周辺は水に囲まれた場所にあるという記憶があったのですが、堀ではなく旭川であったことを今回初めて知りました。あの「地質学的には高梁川、旭川、吉井川などの河川によって形成された沖積平野」である岡山平野を生み出した川の一つです。
その旭川から取水された用水路が西川用水で、現在の西川緑道公園になっていることまで私の中でつながりました。
Wikipediaの「概要」に後楽園ができるまでの経緯が書かれています。
後楽園は岡山藩主・池田綱政が岡山郡代官・津田永忠に命じて造らせたもので、1687年(貞享4年)に着工し14年の歳月をかけ1700年(元禄13年)に完成した。岡山市内を流れる旭川をはさみ、岡山城の対岸の中州に位置する。藩主が賓客をもてなした建物・延養亭(えんようてい)を中心とした池泉回遊式の庭園で岡山城や周辺の山を借景としている。江戸時代には延養亭を茶屋屋敷、庭園を後園または御後園と読んでいた。1871年(明治4年)、園内を一般開放するに当たって、これを後楽園と改めた。
「築庭の経緯」には「旭川の流域にあった『岡山』という小高い丘を利用して築城」したという岡山の由来や、その時に堀の代わりに旭川の流れを変えたために岡山城下は洪水に悩まされたという話も、もっと詳細を知りたいと思う話です。
明治4年に「庭園を一般に公開」とさらりと書かれていますが、日本の公園の歴史からするとかなり進歩的なことではないかと思えてきます。
また、戦争で多くの建物が焼失してしまったのに、「進駐軍の撤退後は再び岡山県の所有となり、およそ2億円の費用を投じて園内を本来の景観に復元」というあたりも、あの倉敷美観地区と同じように、富を社会へ還元することに惜しみない文化があるのではないか、そんなことを西川緑道の散歩から考えつきました。
「散歩をする」まとめはこちら。