JR山陽本線・高島駅に14時34分に到着しました。ホームは通学の大学生や高校生がたくさんいます。その人の波が引くのを待って、ホームの下を北から南へと流れる用水路を眺めました。
地図では北側より南側の方が太い水色の線で描かれているのですが、実際に幅の広い水路で、よくよく見ると2本の分水路でその先で東と西へ1対3ぐらいの水量の差になって流れていくようでした。ホームのすぐ向こうには水田もありました。
北口の改札の前に案内地図があり写真に残したのですが、帰宅してから眺めると龍の口山の方向へ「岡山城鬼門(岡山城天守閣より東北の方向)」と斜めの点線が描かれていることに気づきました。
その案内図にはあの佐原駅周辺案内のように小さな川や用水路の名前も記されていたので、これから目指すのは「祇園用水」であることがわかりました。
駅前から北西へと小さな用水路をたどって祇園用水に出ました。倉敷の東西用水のような水路で、浅いけれど幅が広い水路で1月中旬だというのに豊富な水が静かに流れ、その先に水田地帯が広がっていました。祖父母の家を思い出す風景です。
北から流れてきた旭川が大きく蛇行しながら龍の口山にぶつかり、川幅が広がりながら南西へと向きを変えるあたりに後楽園用水の取水堰があるようですが、今回は時間がなくて少し下流の後楽園用水が分水されるあたりを目指しました。
しばらく歩くと就実高校グラウンドの向こうに旭川の堤防が見え、大きな水路がもう一本北から流れてくる場所にぶつかりました。駅前のあの案内図によると「外田溝用水」とあります。
祇園用水が外田溝用水へ分かれる祇園分水路は池のようで、その北側の堤防のような場所の上へと上がると祇園用水が山の端を通っているのが見えました。そしてそこからはもう一本、南東へと分岐しているようで、地図によれば千間溝川でしょうか。
なんとも複雑な場所です。
その先の林の中に「祇園大樋」がありました。
この樋は、土木建築の天才として知られた津田永忠が沖新田などの開発を行った際、大量の灌漑用水の必要性から、元禄5年(1692)、彼の指揮のもとに築造されたと伝えられています。
その巨大さから、築造場所の地名に因(ちな)んで祇園大樋(ぎおんおおひ)と呼ばれるようになりました。
祇園大樋とは、通称で地獄(地穀)樋、石樋、丸樋、後楽園用水樋門、外田溝(そとだみぞ)樋門と呼ばれる6樋門の総称です。昭和56年(1981)からの改修工事で地獄(地穀)樋と石樋を1基の樋としたため、現在は5樋門となっています。
当樋が供給する用水は、旭東(きょくとう)平野一帯の水田の灌漑のみに止まらず、かつては御後園(現後楽園)へも供給され、流域住民の生活用水としても利用されるなど、幅広く活用されながら現在もその重要や役割を担い続けています。
そこには現在「祇園大樋改修記念」として石樋の一部が展示されていました。
山にぶつかったところにあるこの場所は淋しい場所を想像していましたが、散策する家族連れにけっこう出会いました。
*穴海時代の神社*
その先に備前国総社があったので、もしかして水の神様だろうかと訪ねてみました。
大きな木の山門が建っていて、その先に龍の口山の雑木林を背景にしたこれまた立派な木の社殿が立っています。
まるで山門が額縁で、その中に描かれた絵画のような佇まいにしばらく見とれてしまいました。
さらに鳥居の外から見ると山門と社殿と山が遠近法のように組み合わされているようで、古くはあの大鳥居から三輪山(神体山)とか水分神社の山門から眺める吉野川、そして現代では新幹線のホームから絵画のように見える姫路城などがそうした流れなのだろうかと想像しました。
そして参道の真ん中に掃き清められた四角い砂場のようなところがあり、歩いてはいけない場所だろうと避けながら本殿に近づきました。
備前国総社
古代律令制下、平安時代末ごろまでには、ほとんどの国に総社が設けられた。総社とは、国司(国の長官)が逐一出向いて巡拝すべき各神社が、国内各所に分散して不便であるため、各祭神を国府の近接の一ヶ所に合祀することで、参拝を簡略化するために設けられたもので、国府直属の祭祀施設である。
備前国の総社は、備前国府(推定地)の北西丘陵に位置し、国司所祭の古社一二八の祭神を集めたものと伝えられる。成立の時期は定かでないが、およそ平安時代と推定される。律令制崩壊後は、氏神として地域の信仰を集め、中世の神仏習合期、岡山藩による寛文の神社整理(1666~1667)を経て、現在に至っている。
現在の境内地付近には、惣社の内一、同二、馬場といった字名が残っており、かつては一町四方におよぶ広大な社地が広がっていたと考えられる。
昭和四十年七月に岡山指定史跡に指定された。
水の神様ではなく、中世の大規模な干拓が始まるより前の吉備の穴海の時代の総社でした。
近くまで海があったのでしょうか。
そしてここから百聞川の下をサイフォンで通して後楽園用水を引こうとした時代はどんな風景だったことでしょう。
1月中旬、日が少しずつ長くなったとはいえ日没までわずかです。
龍の口山の裾野に沿った古田樋尻川という用水路沿いにバス停へと向かいました。
真冬なのにここも水量が豊かに流れています。
バスを待つ間、しばらく水路のそばに座って眺めました。
岡山の用水路の歴史、知れば知るほどまた歩きたい場所が増えそうです。
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