水のあれこれ 287 後楽園用水

初めて後楽園を訪ねたのは1990年代後半だったような気がするのですが、中へ入ったのかそれとも周囲を歩いただけだったのか記憶が薄れています。

2018年から頻繁に岡山を訪ねるようになって、後楽園へと水路があったことを知りました。たしかに岡山市水道記念館より少し上流、旭川左岸から用水路らしき水色の線が描かれています。いったん、百間川で途切れているのですが、後楽園へ向けて水路が続いているようにも見えます。

 

国土交通省の「旭川(あさひがわ)」に後楽園用水の説明がありました。

旭川には多くの中洲がありますが、日本三名園のひとつといわれる後楽園も、実は、旭川の中洲につくられています。園内を流れる小川は水の圧力を利用したサイフォンの原理を用いて、後楽園用水から水を引き込む工夫(現在は旭川からポンプで取水)が取り入れられ、旭川の水面よりも高い位置に水が引き込まれています。川より高いので乾燥しやすく、苔などが育ちにくいため、日本の庭園では初めて芝生が導入されたということです。

 

岡山城の本格的な築城は16世紀の末。慶長2年(1597)ごろの完成といわれています。宇喜多秀家が築きました。五重六層の勇壮な姿。その工事のとき、旭川の流路を付け替えて堀の代わりとしました。そんな岡山城から後楽園にかけて、水の流れを制御する多くの石組みが見られます。

 

後楽園が生まれたのは元禄13年(1700)のことでした。藩主池田綱政の命を受け、百間川を手がけた津田永忠がつくりました。完成までに14年の歳月を要しています。

「天下の憂(うれ)いに先んじて憂い、天下の楽しみに後(おく)(遅)れて楽しむ」という精神を造園で表現したとか。その意図がそのまま後楽園という名になりました。

 

 

2018年ごろから岡山平野の河川を眺めるようになり、実際に新幹線で百間川を通過した印象から近代に入ってからの放水路だろうと思い込んでいました。

しだいに中世の干拓を進めたときに作られた川だとつながりましたが、さらにこの百聞川の下をサイフォンの原理で後楽園用水を通したのが17世紀初めだというのですから驚きますね。

川の上に川、川の下に川を通すマジックのような土木技術もまた歴史が深いものでした。

 

取水堰から後楽園まで水路が川で途切れているのは、現代の治水のために仕方がなく中断させたのではなかったことから是非是非、実際に歩いてみたいと思うようになりました。

 

今回はその取水堰までを目指しました。

 

 

*おまけ*

 

後楽園の由来、「天下の憂いに先んじて憂い、天下の楽しみに後れて楽しむ」。

なんだか現代の政治の様相を見るにつけ、心に沁みますね。

 

 

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