現代の村八分というと昨日の記事のように、「田舎と移住者」のような新旧の価値観の相違からくるかのようなイメージがありますが、案外、そうでもないと両親の経験から考えています。
両親が40年ほど前に家を建てたのは水田を宅地にした新興住宅地で、10戸ぐらいの集落が二つ合わさって自治区を作っていました。
家を建てて引っ越して来たのは会社員や公務員など、ほかの地域出身者ばかりで、全く一からの小さな自治体を作り始めていました。
お互いの生活や家族関係に立ち入ることもあまりなく、あっさりした人間関係でした。
住んでから十数年ぐらいした頃でしょうか、両親だけがその自治会のゴミ捨て場を使用できなくなったことを知りました。
家庭菜園を持っていたので生ゴミはそこで処分できましたが、それ以外のごみは市のごみ処理場に車で運ぶようになりました。
理由を聞いて、「そんなことで」と驚きました。
その自治会が所属している地域の運動会に、父が出ることを拒んだことがきっかけでした。
ほかの住民は50代前後だったのに対して父はすでに70代でしたし、もともとワイワイとお祭りやイベントに出ることは性格にはあっていないこともありました。
私も父に似ているので、「今さら大の大人が運動会とか勘弁して」と、両親に同情しました。
まだ当時、母は60代だったので、車を運転して定期的にゴミ捨てに行っていました。
ただもっと年をとった時に、目の前のゴミ捨て場を使用できた方が助かることは目に見えていますから、自治会にお願いしてみたらと母に話したことがあるのですが、関係修復は難しそうでした。
母が体調を崩してからは、ケアマネージャーさんが市のボランティアに定期的なゴミ捨てを頼んでくださり、母は救われたようです。
自治会での村八分はゴミ捨てだけで、仲の良い隣近所の人たちとの付き合いは今まで通りだったようです。
おそらく、両親の立場に同情的だけれど、自治会の意向は覆せないものがあったのだろうと思います。
「ブリタニカ国際大百科事典」の「村八分」の説明。
村社会の秩序を維持するため、制裁として最も顕著な横行であった絶交処分のこと。村全体として戸主ないしその家に対して行ったもので、村や組みの共同決定事項に違反するとか、共有地の使用慣行や農事作業の共同労働に違反した場合に行われる。「八分」ははじく、はちるの意とも、また村での交際である冠・婚・葬・建築・火事・病気・水害・旅行・出産・年忌の10種のうち、火事、葬を除く8種に関する交際を絶つからともいわれ、その家に対して扶助を行わないことを決めたり、村の共有財産の使用や村寄合への出席を停止したりする。八分を受けると、共同生活体としての村での生活は不自由になるため、元どおり交際してもらう挨拶が行われるが、これを「わびを入れる」という。農業経営の近代化に伴い、各戸が一応独立的に生計が立てられるようになってからは、あまり行われなくなった。
「各戸が一応独立的に生計が立てられるようになった」はずの新たな自治会で、むしろ生き続けているのかもしれませんが、いろいろなケースがあることでしょう。
村八分という言葉は、「仲間はずれにすること」(デジタル大辞泉)の意味合いへと変化してきたのかも知れませんね。
「村」というイメージに引きずられると、何が問題なのか見えなくなりそうな言葉かもしれません。
「イメージのあれこれ」まとめはこちら。
ごみについてのまとめはこちら。