つじつまのあれこれ 24 なぜ「エコ」に胡散臭さを感じてしまうのか

今日のタイトル、これは私の気持ちの問題のレベルなのですが、7月1日以降、行きつ戻りつレジ袋有料化について考えていたら、やはり行き着くのが割り箸の記憶です。運動の失敗学とも言えるかもしれません。

 

80年代から90年代にかけて、割り箸は森林破壊や環境負荷の象徴として「使わない運動」が広がりました。

箸箱を持って歩く人が周囲にも増えたのですが、中には洗っていないような人もいて、私はちょっと気が引けていました。

そうこうしていると、国内でも間伐材の利用で割り箸を作っていた方達の廃業など、割り箸ひとつとっても社会の気持ちが変わるだけで、大きな影響を受けるのだとわかりました。

 

ほんと、経済は苦手で自分の生活の範囲からしか理解できていないのですが、この割り箸の件で不買運動やエコ運動には慎重になろうと学びました。

 

あれから30年たって、この未曾有の感染症の広がりの中、割り箸が途絶えなくて本当によかったと思います。

 

*問題解決のための優先順位はレジ袋なのか*

 

今回は「海洋ゴミ」に焦点が当てられてこの運動が進められているように見えます。

専門的なことはわからないのですが、最後は海に流れつくことをどうにかしなければいけないのであれば、レジ袋や少し前のストローをなくすといった何かをスケープゴートにするような広げ方ではなく、ゴミの捨て方とか処分方法にもまだ検討の余地があるのではないかと思えます。

 

ゴミ回収の日に道路におかれたゴミにネットをかけるだけの場所が多い印象ですが、川のそばを歩いているとそこからゴミが飛ばされて川や水路へと落ちています。

1960年代に東京オリンピックで撤去されたゴミ収集箱ですが、むしろこうした収集場所が復活してきているのかもしれません。

 

1980年代は資源ゴミという言葉さえなかった時代から、90年代には資源ゴミ回収やリサイクルが定着して、その分可燃ゴミの日は1日少なくなりました。

60年代の東京では生ゴミから出る汁で不潔になりやすかったごみ収集場所ですが、焼却施設に耐えられるポリ袋のおかげで、匂いや汚れた汁が漏れることを防いでくれています。

生活とゴミの問題にも歴史があります。

 

エコという言葉には、なんだかそういうさまざまな立場の現実の葛藤の歴史を感じない。

その長い時間をかけて問題解決を考えてきたことと、辻褄があっていない。

それが胡散臭さと、気恥ずかしさを感じる理由かもしれません。

 

 

 

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