記録のあれこれ 38 東京ごみ戦争歴史みらい館

井の頭線高井戸駅の真ん前に、大きな清掃工場があります。

2011年の東日本大震災の後、耐震工事で煙突が一回り大きくなったように見えましたが、その後、清掃工場本体は建て替え工事に入ったと記憶しています。

久しぶりにそばを通ったら、外壁もモダンで、周囲に遊歩道までできていました。

そして「東京ごみ戦争歴史みらい館」が清掃工場の入り口にあって、誰でも入れるようになっていたので、さっそく見学に行きました。

 

*東京のゴミ収集の変遷*

東京オリンピックとゴミ箱に書いたように、私が幼児だった頃の東京ではコンクリート製のゴミ置場が設置されていました。今のように丈夫でかつ燃やせるゴミ袋も潤沢ではないので、生ゴミの汁がゴミ箱内にいつもたまっていました。

それが東京オリンピックとポリバケツによって変化したそうです。

「ゴミ都市」と呼ばれていた東京に、都の主導でゴミ収集車が250台導入され、また積水化学製のポリバケツが普及した。 

 

では、このゴミはどのように処分されていたかというと、1960年代はまだ夢の島埋立地へと運ばれていました。今から半世紀以上前のことです。

 

幼稚園児のころ、父の転勤で山間部へと引っ越しましたが、そこでのゴミ処理方法は、紙くずなどは官舎の庭で焼却し、生ゴミは近くの林へ投げ捨てていた記憶があります。

 

当時、ニュースでは時々「ゴミ処分場がいっぱい」と夢の島が映し出されていたことを覚えています。東京は大変だなあと他人ごとのように思っていたことでしょう。

地方はまだ「ゴミを投げ捨てられる場所はたくさんある」程度の環境への意識だったのだと思います。

 

*杉並清掃工場と「東京ゴミ戦争」*

 

東京ごみ戦争歴史みらい館に「概要」がまとめられています。

杉並清掃工場は、かつて、1950年代から1970年代にかけて生じた「東京ゴミ戦争」の舞台のひとつとなった。日本の高度経済成長期、大量生産・大量消費・大量廃棄の時代が到来し、埋立地で処分される廃棄物の量は増加の一途をたどっていた。特に最終処分場を抱え、他の区から大量の廃棄物が持ち込まれる江東区では、ごみ運搬車による交通渋滞や悪臭問題、ハエの大量発生などの生活環境の悪化に悩まされていた。

 

資料館に入ると、22分間のビデオがあります。

夢の島近隣の住宅には殺虫剤を撒いてもたくさんのハエが入り込み、他の区から毎日5000台のゴミ収集車が江東区へゴミを捨てに来て、そのゴミ収集からでる汚水が道路に染み込んでいる映像がありました。

 

この夢の島が満杯になる前に、各区に清掃工場を作るという計画が始まったのですが、杉並区民は1966年に突然「新聞の折り込み広告」でその計画を知らされたそうです。そこで反対運動が起きたのですが、これに対して江東区民側からは「江東区は100年来ゴミ置き場にされている」「江東区にゴミを捨てるな」と反発が高まりゴミ搬入阻止という事態になったのが、「東京ゴミ戦争」でした。

 

杉並区の住民側の反対運動は9年ほど続き、当初の都の公害基準値を3倍に厳しくした内容と、「住民参加」「公害対策」「周辺の整備」という条項で和解し、1978(昭和58年)に着工、1982年(昭和57年)に竣工しました。

 

現在、建てかわった2代目の清掃工場にも、この和解条項が引き継がれていることが理解できました。

 

私が中学生から高校生だった1970年代前半に年に2〜3回、当時住んでいたところから東名高速と環八を通って都内へ行き、父が用事を済ませている間に母と私は高井戸駅から新宿へ行って買い物をしていました。

井の頭線に乗った記憶はあるのですが、車窓の風景も反対運動の雰囲気も記憶にないのです。

 

あの時、車窓に見えていたのは清掃工場の予定地と、地元住民が見張り小屋を建てたゴルフ場の鉄塔だったのかもしれないと、ここで資料を読みながら記憶がつながっていきました。

 

そして杉並清掃工場が建設されていた頃は、看護学生として再び都内で生活をしていたのですが、竣工したことも意識に登らず、「東京ごみ戦争」という言葉を知ったのももう少し後のことでした。

 

時々、こうして自分が生きてきた時代を確認する必要がありそうですね。

 

 

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