水のあれこれ 212 淡山疎水と東播用水

博物館にあったパンフレットに「淡山疎水(たんざんそすい)・東播用水(とうばんようすい)のお話し」という小学生向けのものがあり、平易な言葉で書かれていますが全体像が良くわかるものでした。

 

*淡山疎水と東播用水ってなあに?*

淡山疎水と東播用水は、"いなみ野台地"を中心に三木(みき)北部地域と北神戸地域(神戸市・明石市加古川市三木市稲美町)の田んぼや畑で農作物を作るための大切な水です。

約7,500ヘクタール(甲子園球場のグランドの約6,000個分)の田んぼや畑をうるおしています。また東播磨地域や淡路地域などの水道の水としても使われています。

 

「ダムにためられたたくさんの水は、水路を通ってため池やファームポンドに送られているんだよ。」

「淡山疎水と東播用水は、みんなの家の近くも流れているよ。」

 

「ファームポンド」というのは「田んぼや畑に使う水を貯めておく水槽のこと」で、ため池とは違ってコンクリート製の円柱形の水槽のようです。

 

 

*江戸時代の"いなみ野台地"*

大きな川がなく水が少ない土地だったため、平安時代のころは、ほとんど人が住んでいませんでしたが、江戸時代になると、人が住むようになり畑とため池がたくさんつくられました。

雨が少なく、干ばつがたびたび起こる地域でした。

雨水などをためておくために、たくさんのため池をつくりました。

 

「雨の少ない地域では、どんな農作物を作ったらよいのかな?」

「雨が少なくても育つ綿花を栽培し、その綿花から「玉川さらし」とよばれる着物などを作っていたんだよ。」

 

ちなみに「全国ため池数ランキング」では、第1位が兵庫県で2万4千所、第2位が広島県で1万9千ヶ所、第3位が香川県で1万5千ヶ所(令和2年3月末現在)だそうです。

 

*明治時代の"いなみ野台地"と淡山疎水*

明治時代になると、外国から安くて品質のよい綿花が輸入され、"いなみ野台地"でつくられる綿花が売れなくなり、さらに、税金が高くなって、生活がくるしくなりました。そのため、お金になるお米をもっと作りたいという願いが強くなってきました。

その願いをかなえるため、"いなみ野台地"の東にある淡河川(おうごがわ)と山田川(やまだがわ)から水をえることになり、頭首工や水路などがつくられました。これが淡山疎水です。

しかし、淡河川山田川から水を得ることができたのは、水が少ない冬だけでした。このため、運んできた水を春の田植えまでにためておく、ため池もたくさんつくられました。

昔の人の努力でようやく水が"いなみ野台地" にやってきました。

 

*苦労してつくられた淡山疎水*

江戸時代後期、"いなみ野台地"の人々は、遠くの山田川から水を取り引いてこようとしました。しかし、"いなみ野台地"と水を取る場所では藩が違うことなどから、工事はできませんでした。

100年以上経った明治の中ごろになって、今の姿の兵庫県となり、多くの人が協力し、国から費用を借りることができ、ようやく工事が始まりました。

工事は困難で、淡河川疎水と山田川疎水を完成させるのに、31年間(明治21年大正8年まで)もかかりました。

加古川郡長の北条直正は、水を求める農家の話を聞き、魚住逸治(いつじ)らと工事開始に努力したのね。

疎水の工事中に発生した大水害の復旧では、帝国議会議員となっていた魚住逸治が、国の補助を実現させたのね。」

 

JR山陽本線魚住駅があってその名前が印象に残っていたのですが、魚住逸治と何か関係があるのでしょうか。

 

また、ここでも外国人技師の協力があったようです。

「イギリス陸軍技師ヘンリー・スペンサー・パーマーが、鉄管を使った「御坂サイフォン」を提案したんだ。長さ700mを超える谷の山から山へ、鉄管をはわせて水を送るんだよ。」

 

この時代につくられたのが、「淡河頭首工」「山田頭首工」「淡河川疎水(今は淡河かんせん水路)」「山田川疎水(今は山田かんせん水路)「めがね橋(御坂サイフォン橋)」「練部屋(ねりべや)分水工」のようです。

 

東播用水のたんじょう(平成5年)*

第二次世界大戦後、神戸市の人口は増え、昭和40年頃には大正時代の約2倍になります。人口が増えたため、これまでよりたくさんの農作物をつくることとなり、田んぼや畑の水を増やすことが必要となりました。また、飲み水の量なども増えました。

そこで、篠山(ささやま)川から北神戸地域と東播磨地域に水を運んでくることとなりました。いよいよ東播用水のたんじょうです。

 

東播用水の工事が完成するまでには25年間(昭和45年から平成5年まで)かかったんだよ」

大正9年に約60万人。昭和45年には約120万人。2倍に増えたんだね」

 

この時に建設されたのが、「篠山川から水をとるための川代(かわしろ)ダム」「三木市や神戸市の田んぼや呑吐(どんど)ダムに水を送っている大川瀬ダム」「川代ダムと大川瀬ダムを結ぶ川代導水路」「神戸市や稲美町などの田んぼや畑に水を送ったり、水道水を作るための水を送っている呑吐ダム」「水を消毒して飲み水に作りかえている神出(かんで)浄水場」「ダムからの水を運ぶ合流かんせん水路」のようです。

 

穴が開くように地図を眺めても、どこから水が来ているのかよくわからなかったのは、こんな水路網だったからでした。

 

 

東播用水が完成した2年後に阪神淡路大震災が起こりました。

阪神淡路大震災の時には、被害を受けたひとびとの飲み水として、たくさんの水を送ったんだよ。(毎日2リットルのペットボトル930万本分を、約3ヶ月間)。」

 

 

車窓から見ていた溜池が多い地域には、こんな歴史があったのでした。

次に通過する時には、風景が違って見えそうですね。

 

 

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