水のあれこれ 334 昆陽池と瑞ヶ池

阪急線伊丹駅からバスに乗り、松ヶ丘バス停で下車すると目の前に昆陽池があるようです。

地図を眺めていた時には「松ヶ丘」という地名からおそらく高台にため池がつくられて駅からは上り坂だろうと想像していましたが、ずっとほぼ平坦な道でした。

 

目の前に大きな森が広がり、その中に水面が見えます。

 

昆陽池と伊丹台地*

 

Wikipediaの昆陽池に「昆陽池陥没帯」の説明があり、その中で「伊丹台地」について書かれていました。

伊丹市域は東に猪名川、西に武庫川が流れ、その間に伊丹台地が広がる。

阪急線伊丹駅の手前から高架橋になり、終着駅が2階だったのはこの台地を上ってきたからで、松ヶ丘も同じ台地の上だから平坦な道だったようです。

 

・伊丹台地は北の北摂山系から南の大阪湾にかけて緩やかな傾斜がついている。

・その途中、伊丹市を東西に分断するように伊丹断層が走り、その北側に一段くぼんで低くなっている地域が昆陽池の南西から北東に延びている。昆陽野、猪名野のあたりで、昆陽陥没地帯あるいは昆陽池地溝帯と呼ばれている。

・北から流れてきた天神川や天王寺川の川筋はこのあたりで急に西に流路を変えて武庫川に向かう。

行基はこの陥没帯地形の高低差と旧川筋のくぼみを生かすことで広大な溜池を造成したと考えられる。

行基の作った昆陽の池は灌漑だけでなく洪水調整の役に立つものであった。

 

この散歩で歩いた道は、まさに台地の端からゆるやかな坂道が武庫川(むこがわ)まで続いている感じの地形だったことを思い返しました。

 

 

行基さんがつくった昆陽池

 

昆陽池は、奈良時代の僧行基(668-749)の主導により開削されたと伝えられる。自然地形を生かして、灌漑と洪水調整の役割を担った(昆陽池陥没地帯または昆陽池地溝帯参照)。行基が没した時から約400年後に編纂された『行基年譜』の「天平13年記」には、この近在「河邉郡山本里」に行基による昆陽上池と下池があったことが記されている。江戸時代の初めに下池が埋め立てられ、上池が「昆陽大池」あるいは「昆陽池」と呼ばれるようになる。さらに1970年代には残っていた昆陽池の1/3も埋め立てられた。現在は造営時の一部のみが昆陽池(こやいけ)として残り、昆陽池公園として整備され、市民に開放されている。

28.5haの昆陽池公園内には自然池(北側)12.5haと浄水場の水源としての貯水池(南側)4.5haの二つの池がある。

Wikipedia昆陽池」「概要」より)

 

現在の昆陽池もかなり広いのですが、行基さんがつくった時代は相当な広さだったようです。

どうやってこの地形を見極めたのでしょう。

「行基さん」と親しみをこめて呼ばれ生誕1354年まで祝われる意味がわかるような気がしてきました。

 

 

 

昆陽池の周辺のため池*

 

昆陽池のすぐ北側には「瑞ヶ池(ずがいけ)」をはじめいくつかの溜池らしい場所が地図には描かれています。

出かける前には近そうだから立ち寄ってみようと思ったのですが、とてもとても昆陽池を回るだけでも無理な距離でしたから、こちらも相当大きなため池のようです。

 

検索すると「ひょうごため池保全県民運動」というサイトに説明がありました。

香川県といいさすが全国ため池数ランキング上位の地域ですね、一つ一つのため池の歴史の記録があるのですから。

 

「常時満々と水を湛えていたといわれる瑞ヶ池の築造された記録については、南にある昆陽池にかかるような古文書類は残されていないので不明」とのことですが、江戸時代の古い絵図が掲載されていました。

 

 池の名が絵図の中に出てくるのは、元禄6年(1693)に起こった争論のときに作った絵図面である。

 これらの絵図面は伊丹市立博物館で作成された『伊丹古絵図集成』に収録されており、合わせて絵図の解説もされている。

 この絵図のうち、時に瑞ケ池に完成する争論についてその概要を紹介しておく。

 元禄6年(1693)の絵図面(図3)に伊丹郷が新築した奥谷上池、下池の池敷地のことで起こった争論の経緯が側書として次のように記載されている。

 伊丹郷の村々は、加茂井(猪名川から取水)の水だけでは農業用水に不足することがあるので、それを補う方法としていま緑ケ丘公園にある二つの池、昔、奥谷上池、下池あるいは伊丹池といっていた池(大鹿村内)を築造して用水を取ることが考えられた。

 この池は大鹿村瑞ケ池から流下する水を引き豊富時代末期の文禄(1592~95)の頃、片桐且元の検分をうけて築造されたといわれる。池の水は加茂井の水に合流して伊丹郷町を構成する伊丹、大広寺、北少路、昆陽口、中少路、外城、野田、植松、上外崎の村々の田畑にかんがいされていた。

 上の記録から考えても瑞ケ池は文禄の頃より以前、すなわち、いまを去る約四百年以前からあったことは明らかであるが、それ以前の記録については古文書に残されていない。

 

その古い図を見ると、いくつかのため池からの水路はまっすぐ北の方へと作られているようですから、現在の猪名川(いながわ)右岸のJR宝塚線が通るあたりを潤していたのでしょうか。

 

昆陽池は伊丹台地の西側の武庫川左岸へ向かって水路が作られ、瑞ヶ池をはじめとするいくつかの溜池は北側、猪名川右岸を潤していたようです。

 

ため池と水争いの記録が残されていることで、その時代の様子がわかるのですから生活の記録は大事ですね。

 

 

帰宅してから現代の地図と重ね合わせてみていたら、この瑞ヶ池のあたりも歩いてみたくなりました。困りましたね。

 

 

*おまけ*

 

伊丹市のため池と水路の歴史も圧倒されましたが、印象的だったのは路線も本数も多い市営バスがあったことでした。

Wikipediaの「伊丹市交通局」の歴史を読むと、元は民間だったものが市営になり今に続いているようです。どのような公共交通機関や交通権の考え方があったのでしょう。

 

 

 

 

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