京王線分倍河原駅を降りて方向感覚を失ったのは交差するJR南武線がまさかの崖線(がいせん)上で切り通しになっていたのが理由のようでした。
そこから崖線沿いにNECの敷地沿いにある市川緑道まで来た時に、今度は記憶が混乱しました。
右手はお城の石垣のような高い場所に小学校があり、その高台にJR南武線の西府駅があるようですがここもまたほとんど鉄道の気配を感じません。
JR南武線は1990年代ごろから何度か全線に乗った記憶があるのですが、私の記憶ではこのあたりでたしか「駅で停車した時に車窓からNECの工場の広い敷地が見えた」のです。
「こんなところにNECの工場があるのか」と記憶に残ったのは、当時NECに関係のある知人がいたからでした。
ところが実際に西府駅の近くを歩くとNECの敷地は崖線の下で、南武線は高いところを通っていますから車窓から見えるはずがありません。
さらにWikipediaの西府駅を読んで愕然としました。この駅の開業が「2009年」となっています。
私の記憶は1990年代なので、駅もなかったことになります。
私が見ていたのはいったいどこの風景だったのでしょうか。
*南武線の歴史と1960年代の風景*
Wikipediaの南武線を読むと、多摩川の砂利運搬のために1927年(昭和1年)に開業した際には、まだ多摩川右岸の川崎だけの路線だったようです。
翌年「大丸ー屋敷分(現:分倍河原)間を延伸」とありますが、あの大丸用水のある稲城長沼から南多摩あたりの右岸から左岸へと多摩川を越え、さらに1929年(昭和4年)に分倍河原から立川間が開業したようです。
ということはあの切り通しの線路はこの時代に造られ、崖線(ハケ)上へと南武線が延伸されたのでしょうか。
分倍河原から立川間の車窓の風景があまり思い出せないのですが、ここ数年府中崖線沿いにハケ下を歩いているのに、なんだか南武線が崖の上を通っていることがピンとこないのが不思議です。
NEC府中工場の沿革を探したところ、facebookの「社史:府中工場の建設(1964年)」(2014年1月24日)が公開されていました。
1964年5月、NECは三田、玉川、相模原につぐ第4の工場として、府中事業所を新設しました。
日進月歩のエレクトロニクス部門を担う生産拠点として、新しい敷地にどのような技術の進歩にも対応できるような「万能工場」を建設する方針を立て、それを東京都下の府中で実行に移したものです。
8月に府中事業所長となった渡辺武穂(のち専務取締役)は、新設当時の府中事業所の従業員の状況について、「社員はみな覚えていましたね。コンピューターにしても、無線にしても、放送にしても当時の日本電気の新しい分野の仕事が多かったですね。成否はやってみなければわからない、見方を変えれば大変クリエイティブな事業に取り組んでいたわけです。"俺たちの城を作るんだ"という意気込みがあったのです。(中略)事業所の町名はもとは本宿でしたが、「日新町」にしたのは今後の日本電気のイメージに合うということで、「日々新たに」を意味する漢字から引用したのが由来と記憶しています。
写真は建設中の府中工場と、稼働時の工場の様子です。
今は住宅なども多く立ち並ぶ府中事業場周辺ですが、当時は農地?だったのでしょうか。
周辺には何もない場所に、建設中の工場の写真があります。
「何もない」ではなく、府中用水からの水路が張り巡らされた田畑ですね。
そしてその写真の右上の方に、帯状の森が写っていました。
府中崖線がまだそのまま残っていた頃の写真です。崖線の上にはやはり農地が見えていますがほとんど住宅が写っていません。
南武線はその崖線の際を通っているのだと思いますが、その写真ではよくわかりません。
やはり私の西府駅のあたりの車窓の風景は記憶違いだったようですが、あれはどこだったのでしょう。
今度、もう一度南武線に乗ってみなければなりませんね。
「記憶についてのあれこれ」まとめはこちら。