散歩をする 408 高倉塚古墳から御猟場道へ

京王線分倍河原(ぶばいがわら)駅で下車しました。何度も通過したり南武線から乗り換えたりしたことがありますが、駅の外に出るのは初めてです。

地図でもよく眺めている場所ですからすぐに高倉塚古墳への道に出られると思っていましたが、改札を抜けた途端、なぜか方向感覚がおかしくなり慌ててGPSで確認しました。

 

 

*高倉塚古墳*

 

やれやれと歩き出すと右手は壁のように高くなり、しばらく細い歩道を歩くと「高倉塚古墳」への案内がありました。その右手へと結構な上り坂です。

 

上り切る一つ手前の道を曲がると、プリンのような形の小さな古墳がありました。

府中市指定文化財(市史跡) 高倉塚古墳

 府中崖線(ハケ)の斜面上に広がるこの周辺には、これまで確認されている古墳が25基あり、これらは高倉古墳群と呼ばれています。このうち墳丘が残っているものは4基あり、この高倉塚古墳は古墳群の中心に位置しています。古来より「高倉塚」と呼ばれ象徴的な存在だったことから中世以降には信仰の対象として保存されてきました。

 これまでの発掘調査で、墳丘構築工法が判明し、墳丘下層から6世紀前半とされる土師器坏(はじきつき)が出土するなどの学術成果があり、高倉古墳群を研究するうえで貴重な資料となっています。

 なお、付近の古墳群からは、土器・直刀・鉄鏃(てつぞく)・玉類が出土し、昭和の初め頃に出土した銀象嵌大刀(ぎんぞうがんたち)を含む大刀5振は、平成6年2月に市の文化財に指定されています。

 国内でも数例しかない上円下方墳の武蔵府中熊野神社古墳など、ぜひこの周辺の古墳を散策してみてください。

平成17年3月   府中市教育委員会

 

ひな壇のような住宅地で普通に家やアパートが隣接していますが、見晴らしも日当たりも良い場所ある古墳でした。

 

説明板の地図を見るとこの古墳が府中崖線の際にあって、これから歩く御猟場道は崖線に沿っている道のようです。

ここで、駅を出た時に突如方向感覚を失った理由がわかりました。

地図では南武線京王線の線路が交差しているので、外に出たらその南武線を見つければ良いと思っていました。ところが分倍河原駅もまた崖線の端にありJR南武線はこの古墳のすぐ先で深い切り通しを通っていたのが想定外だったのでした。

乗っている時には気づかないものですね。

 

*崖線を下りて御猟場道へ*

 

高倉塚古墳から数十メートルほど西へ歩くと光明院があり、崖線(がいせん)の上と下を結ぶ道路に出ました。車がひっきりなしに通っています。

 

ひっそりとこの坂についての説明板がありました。

光明院坂(こうみょういんざか)

 この坂道は、普通分梅道あるいは鎌倉街道と呼ばれる古街道です。

 沿道には浅間神社八雲神社、光明院といった由緒ある古社寺が点在しています。さかの名も真言宗光明院に由来します。別名を「根ツ子(ねっこ)坂」ともいわれますが、これは以前道が荒れていたころ、道の両側に木の根がわだかまっていたことによるといわれます。

 この坂下に広がる平地一帯は、元弘三年(一三三三)五月に新田義貞と北條泰家が合戦した分倍河原の古戦場として有名です。

 昭和六十年三月 府中市

 

地図では、坂を下ったところから崖線にそって西へと御猟場道が数百メートルほど続いています。

どんな道だろうと想像がつかなかったのですが、右手は高さ2~3mから数メートルくらいでしょうか、緩やかな斜面が続いています。住宅が建っている場所もあれば竹藪や雑木林が残っている場所もあり、遊歩道のように整備されていました。

ところどころハケ上への石段もあります。

 

このあたりには猟りをする場所があったのだろうかと想像しながら歩きました。

検索しても先人の記録は見つけられませんでしたが、「御猟場道」は「おかりばどう」らしいことはわかりました。

 

「まちねっと府中」の「分梅町」に現代の御猟場道の様子が書かれていました。

緑豊かな「御猟場道」、朝の8時前後には一部上場企業戦士達の通り道になっています。

これも大事な「その時代」の生活の記録ですね。

 

ただ私が幼児だった半世紀ほど前までは、ハケの下の水が豊かな地域と武蔵野台地の上の水の少ない地域との生活の差が歴然としていたようですから、「現代」とはいつのことを言うのかわからなくなりますね。

 

さて、この御猟場道の先に今も崖線からの湧水はあるのでしょうか。

 

 

 

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