7月はけっこうあちこちに出かけていて、その散歩のメモも整理して残してあるのですが、まだブログへの記録が追いついていません。
6月下旬の水田三昧の遠出の記録が10月初めまでかかってしまいましたからね。
7月中旬の蓮の花を見に行ったことは書いたのですが、7月初旬に出かけた記録をするのを忘れていました。
深大寺のそばにある青渭神社を6月初旬に訪ねましたが、多摩川の対岸にもう一つ青渭神社があることを知りました。
地図ですぐに見つかりました。
稲城長沼駅の南側に長細い参道が描かれています。
*大丸用水と分量橋公園*
どのようにこの辺りを歩こうかと地図を眺めていたら、お隣の南多摩駅のそばに「水田通り」を見つけました。蛇行しながら、稲城長沼駅の方に続いています。
昨年1月に上谷戸親水公園に行く際に反対側の南口から歩き始めたので、その時には気づかなかったのでした。
地図を穴の開くように見つめると、まだまだ発見がありそうですね。
北口のロータリーのそばに小さな公園があり、二手に分かれている用水路が保存されていました。
「分量橋公園の由来」がありました。
大丸用水は、江戸時代から、稲城市域と川崎市域の9か村の水田通りを潤す大変重要な農業用水として維持・管理されてきました。この場所には、かつて多摩川から取水した大丸用水を菅掘(すげぼり)と清水川(大堀・だいほり)とに分けるために付設された分量樋(ぶんりょうひ)があり、菅堀と清水川の用水を2対1に分けていました。
この公園の東側の旧府中街道には、この分量樋に由来する分量橋がありましたが、周辺のまちづくりが進み、現在の姿となりました。
公園の名称は、この分量橋が地域の方々に広く親しまれていることから、公園名を分量橋公園と名付けました。
「用水を2対1に分けていました」とさらりと書いてありますが、水の流れを観察し、計算し、分ける技術はどうやって見出したのでしょうか。
分水路の一方は遊歩道が整備されていて、訪ねたのが梅雨時期だったこともあるのでしょうか、想像以上の水量が流れていました。
*水田通りから再び、大丸用水を歩く*
遊歩道を80mほど歩いたところから、水路と別れて水田通りが始まっています。
心なしか少し下り坂で、途中、ゆるやかに蛇行しながら住宅街を歩くと本当に水田があり、田植え直後の風景が広がりました。
まさか水田を眺めることができるなんて、しばらく立ち止まりました。
大丸用水路の豊富な水はこの現役の水田を潤していたのですね、きっと。
水田のそばに「想定浸水深 3.0m この場所は多摩川が氾濫すると浸水する可能性があります」という表示がありました。
水が豊かな場所は、水害もまたある場所ですね。
新田通りに突き当たったところまでが水田通りだったようで、そこから北へと向かい、また大丸用水沿いに歩くことにしました。
昔、水田地帯だったことが想像できるような、小さな水路が残っています。
大丸用水沿いは遊歩道が整備されていて、静かに流れる水のそばを歩くことができました。
しばらく歩くと「大丸親水公園」があり、大丸庭園を挟むようにまた分水路になっていました。
大丸用水は、江戸時代元禄年間(1690年)に築造され、以来300年にわたり稲城市の農耕地を豊かに潤してきました。
石垣の水路がこの地域に住む方々の手で守られてきたのですね。
地図では予想もしなかった、美しい水路と出会うことができました。
*多摩川の氾濫のあとの病難から守る神様*
ここから少し用水路を外れて、近くにある津島神社を訪ねてみました。
住宅の中にポツンとお社があり、鎮守の森もありません。
小さな石碑がありました。
津島神社天王社縁起
天慶八年(九四五年)念佛信奉者当所仁右衛門毎年多摩川の氾濫とその後に起こる各戸の病難を救わんと空也上人より牛頭天王を授けられ戸民相寄り柳島の水上に祀り、津島牛頭天王社を御本社とする
「毎年多摩川の氾濫とその後に起こる各戸の病難」、今までだったら通り過ぎてしまうような石碑に目がいくのも、昨年来から感染症という言葉を耳にしない日がないからでしょうか。
原因もわからない病難に祈るしかない時代はごく最近まであった、いえ現代もかもしれませんね。
目的の青渭神社に行く前に、期せずして多摩川の水と災害の歴史を知ることができました。
「水の神様を訪ねる」まとめはこちら。