水の神様を訪ねる 82 庄川沿いの弁財天社

庄川の堤防沿いに弁財天社のあたりまで歩き、上中野の交差点から堤防の内側を流れる幹線水路沿いを歩けるところまで歩いて、途中でバスに乗って砺波駅方面へと戻る計画です。

 

期せずして出会った窪みのような場所にある用水神社から石段を上って、また県道40号沿いに歩きました。

庄川の堤防と、このかつての堤防に挟まれた場所に水田が続いています。

その水路を見たくなって、一段低い水田地帯へと降りてみました。

 

田植えが終わったばかりの水鏡に、先ほどの浄水場のタンクと青い空が映っています。

そばの水路は水が勢いよく流れていました。

現在は合口堰堤からの水路ですが、かつてはここは舟戸口用水と鷹栖口用水の取水口に挟まれていた場所だったようです。

 

水田地帯を抜けて庄川の堤防の上を歩きました。

対岸は山が迫り出していて民家はない区間のようです。

緑の山々が庄川の水に映えて美しく、人の気配もない静かな静かな道です。

 

その先に公園があり、鎮守の森らしき場所が見えました。

 

*洪水から守る水神*

 

遠目には森にしか見えなかったのですが、鎮守の森の中は河原よりも少し高くなった場所でした。

 

庄川の弁財天社

 

 弁財天社は「元雄神神社(もとおがみじんじゃ)」とも言い、庄川流域に住む人々を洪水から守る水神として崇敬を集めています。

 天正十三年十一月二十九日(一五八五)の大地震庄川が大洪水になった際に激流の中に樹木が繁茂した小島が残り、被害を最小限にとどめました。

 当時の藩主前田利長が被災地の視察にこの地を訪れたとき、その小島を不思議に思い、「水の神」である弁財天を祀り、小島を弁財天山と命名したと記されています。

 その後の庄川の洪水で雄神神社は現在の庄川右岸山麓に移転しました。そのとき雄神神社の拝殿跡に御分霊と弁財天を祀る「元雄神神社」が創建されました。

 毎年七月二十五日が例祭日でさらに三十三年ごとに御開帳大祭がとり行われています。

 周囲にはヤブツバキがあり、境内地が庄川の流れに寸断される前、対岸と地続き出会った頃の植生を残す貴重なツバキです。

 

令和五年三月三十一日 砺波市教育委員会

 

 

初夏の日差しに輝く庄川の水面が美しい場所でした。

 

それにしてもわずか数百メートルほどの間に松川除け地蔵、用水神社そして弁財天と水の神様が祀られていたので連続3日の「水の神様を訪ねる」になりましたが、それもそのはずで庄川と千保川を切り離すことで扇のように広がる川の流れを安定させ、後の散居村につながる美しい水田地帯をつくりだした大事な場所だったといえそうです。

 

国土交通省の「庄川治水の歴史」にそのあたりがまとめられていました。

庄川の名前の由来と藩政時代の河川改修

 

 庄川は、古く雄神川と呼ばれていました。これは、砺波市庄川町鉢伏山麓にある雄神神社が由来だと言われています。雄神神社のまわりの地域を「雄神の庄」といい、そこを流れていたために「雄神庄川」と呼ばれていました。のちに、「雄神」がとれて「庄川」と呼ばれ、現在に至っています。

 寛文10年(1670年)、加賀藩では高岡を中心として急速に開発が進んでいる砺波平野を水害から守るために、千保川をはじめ、野尻川・中村川・荒俣川等のいくつかの分流を扇頂部の弁財天社前(砺波市庄川町雄神橋付近)で一本の流れにする工事を始めました。堤防は長さ2kmにもわたり、44年の歳月と、延べ100万人をこえる労力を費やして、正徳4年(1714年)に完成しました。堤防が流されないように松の木が数百本植えられたことから「松川除(かわよ)け」と呼ばれるようになりました。

現在でも、雄神橋上下流の堤防(弁財天付近)でその名残の松を見ることができます。

 

 

水の神様にいざなわれたおかげで、庄川の治水の大事な場所を歩くことができました。

 

 

さて、このあとはいよいよ散居村を歩きます。

 

 

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