出かける前はさっとWikipediaの庄川を読んだだけだったので、散居村あたりの水田はこの庄川の左岸に造られた用水路が潤しているのだろうと思っていました。
ところが、水資料館に展示されていた「600年前の庄川絵図」をみて、JR城端線沿線に広がる水田の風景は全く別の歴史があることを知りました。
*「庄川の流れの変遷」より*
水資料館で購入した「庄川の流れの変遷」を何度も読んでいるのですが、なかなかこの庄川の歴史を思い描くことができないままでいます。
その資料の最初の「縄文時代の庄川 紀元前4000年〜5000年」では、「西に向かった庄川は 小矢部川と合流し 北の富山湾に向かって流れ 現在の庄川とは相当異なっていた」と書かれていて、現代の砺波平野の西側を弧を描くように流れる小矢部川が庄川だったようです。
「奈良〜室町時代の庄川」では、水記念公園があるあたりで扇の要のように「高瀬川」「野尻川」「中村川」「新又川」「千保(せんぼ)川」と分かれて、最も東側には現在の庄川のような流れが描かれているのですが「雄神地区の谷川が平地に流れ出た川で庄川ではない」とあります。
「千保川」は地図を眺めているときに見つけましたが、庄川と小矢部川を繋いでいるので後世に開削された水路だろうと想像していました。千保川以外にも、庄川と小矢部川の間は細い水色の線が何本も描かれていていつ頃の用水路だろうと思っていましたが、これがかつての「庄川分流図」と重なり合いました。
山間(やまあい)から平地に出た庄川は手のひらを広げたように流れていた その扇状地には石だらけの河原があるかと思えば 湿地に沼が渦巻く急流もあり はたまた草木の生い茂る微高地もあるという氾濫原野だった
1300年ごろにはまだ川の名前が明確でなかったのか、「井波の北側に大河が流れていた」という記録も紹介されています。
*本流が西から東へと変わったのはいつ頃か?*
庄川が砺波平野の東寄りに流れるようになるには、河道の定まらない川の付け替えを長い時間をかけて行ってできた関東平野のような歴史があるのでしょうか。
資料では「洪水や地震で 本流が西から東へと変わっていった」と書かれていました。
「昔の覚書」の庄川 1406(応永)年
庄川本流は 高瀬川と呼ばれ小牧村の屈曲から高瀬村に向かって流れ 川崎村で小矢部川に合流していたが 1406(応永)年6月に大洪水が起こり 本流は高瀬川から野尻川へと変わった
「安土桃山〜江戸時代の庄川」では大地震や洪水によって河道が変わっていった様子が書かれています。
「天正の大地震」で庄川の流れが変わる 1585(天正13)年
この地震で 現在の小牧発電所側の下(しも)の山が崩壊し 庄川を堰き止め 20日後には水を満々と湛える天然のダム湖となった
下流の人々は 崩壊時の土石流災害を恐れ避難をはじめたが 右岸側から 少しずつ崩れて流れ出したので大災害を免れた それでも庄川の支流の一部が雄神神社の社内に張り込み 神社を押し出した
洪水で中田川が誕生した 1630(寛永7)年
地震で分流の一部が入り込み雄神神社を押し流した川が・・・今度は洪水で なんと当時本流だった千保川に負けないほどの大きな川「中田(なかだ)川」となった
その後 千保川と中田川は洪水の度に 入れ替わって本流となった
この頃の「当時の庄川絵図」を見ると小矢部川はほぼ分かれていて、現在の水記念公園あたりから千保川と中田川に分かれてまっすぐ富山湾の方へと向かって描かれています。
流れ方は現在の庄川のようにまっすぐ描かれているのですが、大きな二本の川だったようです。
*千保川を締め切って、庄川を一本の川にする*
現在の庄川の流れにする計画は、この寛文時代に作られたようです。
庄川本流を一本にする工事に 1670(寛文10)年
当時加賀藩は高岡に瑞龍(ずいりゅう)寺を完成させた しかし高岡は 千保川の洪水被害を度々受ける場所でもあった
加賀藩は高岡を守るため 洪水の度に交互に本流となる 千保川と中田川のうち 千保川を締め切り 庄川を中田川一本として 水害から高岡を守る大工事を行うことを決意した
現在では地図を最大に拡大しないとわかりにくい千保川ですが、この時に「川幅はうんと狭くして残され 田畑を灌漑する農業用水路として また物資を運ぶ川船(かわぶね)が行き交う運輸川としての役割を果たす川となった」と書かれています。
大工事の内容
1670(寛文10)年に始まった千保川締め切りは 二本の平行する堤防で千保川を締め切ろうという工事だった
一本目が破られても 二本目で防ぐという強い決意が感じられる
完成までに45年の歳月と 延べ100万人の労力をかけ 1714(正徳4)年に完成した
加賀藩主4代目から7代目に渡る工事だった
大雨や地震で流れを変えた大水が、微高地が点在する氾濫原野に押し寄せてくる。わずかの土地に住み、自然に翻弄されながら作物を作る。
それが散居村の前の時代の姿だったのでしょうか。
日本各地のどの川の歴史にも圧倒されてきましたが、今まで訪ねた川では一番難渋しながらその歴史を読んでいます。
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