庄川水資料館の展示で圧倒されたものに、用水路の歴史がありました。
いつもだったら各地の川や水路をただひたすら眺める散歩のあとは、けっこうサクサクとその川や水路の記録を書くことができたのですが、今回はパネルの写真と資料を突き合わせてもいまだに全体像を把握することができないほど複雑です。
左岸側には扇状地へ向けて何本もの農業用取水堰があり、対して山に沿った右岸側にも芹谷野用水などの取水口がありあの射水のあたりまで潤しているようです。
「用水はいつ頃できたの」わからない用水がある
左岸用水(二万石用水など)=よくわからない
鎌倉時代の開設と伝えられている用水がある
右岸用水(芹谷野用水など)=よく分かっている
江戸時代に開設された
※ 針山口用水はよく分からない
(水資料館の展示パネルより)
きちんと「分かっていないこと」も明記されているのが専門的ですね。
それらを近代になってまとめたのが、目の前にある庄川用水合口堰堤(しょうがわごうぐちえんてい)だと知りました。
水資料館を出て、改めてダムの近くに行ってみました。
歴史的土地改良施設案内 庄川用水合口堰堤
富山県の南西部を流れる県下7大河川の一つである庄川(流域面積1,189㎢、流路延長115km)は、岐阜県高山市荘川町の烏帽子(えぼし)岳(標高1,625m)を源とし、富山県へ注いでいます。
古来より庄川平野部の農業用水は、二万七千石用水を始め左岸6ヶ所(二万七千石、舟戸口、鷹栖(たかのす)口、若林口、新又口、千保柳瀬合口)、右岸3ケ所(三合新(みあいしん)・芹谷野(せりだにの)、六ヶ、針山中田口)の取水口を独自に持っていましたが、洪水のたびに取水口が被害を受け、その修理等に膨大な維持管理を必要としていました。
富山県は、その軽減策として昭和9年に庄川用水合口堰堤の建設に着手し、昭和14年に完成したことにより各用水取水口の統合(合口化)が達成されました。これにより、庄川流域の11,000ha余りの農地に農業用水(最大取水量69,387㎥/s)を安定して供給する取水施設が完成し、庄川扇状地は良質米の生産地として有名になっています。
この庄川用水合口堰堤では、農業用水の供給と共に、その力を利用して水力発電を実施しており、施設の管理運営は関西電力(株)が富山県より使用許可を受けて行なっています。
水資料館の資料によれば、左岸は1935年(昭和10)に建設が始まり1939年には取水開始、右岸側は1939年(昭和14)に工事開始されたようです。
その二週間ほど前に訪ねた荒川の六堰頭首工も大正から昭和初期にかけて造られましたが、この時代はあちこちの取水堰をまとめることで水争いや水害に強い農業へと変化した時代だったのでしょうか。
*堰堤と庄川の流れを眺めながら岩魚をいただく*
その堰堤と庄川を眺められる場所に食堂があります。11時前でしたが、お腹がすいてきました。気温が急に初夏めいた中、このあと庄川沿いから用水路沿いを歩く予定ですから力をつけるためにお昼ご飯にすることにしました。
一番乗りだったので、窓側の席に座ることができました。
「岩魚の唐揚げ」に目がいきました。ビールを飲みたいところですがぐっとがまん。
「蓮の芽」も目にとまりました。初めて見るメニーです。これとおそばにしてみました。
蓮根の芽が梅酢に漬けられたものでした。こんな蓮の食べ方もあるのですね。
どこに蓮田があるのでしょう。
淡水魚は高級品ですし最近では身近な魚でさえ手がでない価格ですが、旅先では奮発して美味しくいただきました。
閑散としていた公園も、お昼頃には次々と車で訪ねてくる人の姿が増えました。
合口堰堤の資料によると、もともと流木を生業にしていた地域だったので用水路とは別に流木路が造られ、また漁業補償として「魚族専用水路」も設置されたようです。
大正から昭和の初めでも、こうした地元に対応がされていた地域があったことを知りました。
用水路の周囲に美しい散居村と水田地帯が広がり、堰堤を眺めて美味しい食事をする人が途切れることなく訪れるようになるとは、一世紀前には想像もできなかったことでしょう。
静かにのんびりと過ごすことができる公園でした。
人をたくさん集めて儲けることを目的にした事業になりませんように、そう思いながら庄川の堤防沿いを歩き始めました。
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