米のあれこれ 63 用水路沿いに散居村を歩く

庄川の河川敷に建つ洪水の神様から上中野の交差点を目指しました。

堤防だったと思われる松が残る小高い場所に、バス通りである県道17号線が通っています。

近くの公民館に涼しげな木陰の下にお地蔵さんが並んでいて、そばで一休みさせてもらいました。

「想定浸水深1.0m」と公民館の壁に貼られていました。千保川を締め切る際に「一本目が破られても 二本目で防ぐという強い決意が伝わる」と書かれていましたが、それでも洪水が起こるとこの堤防を越えてしまうのでしょうか。

 

ここから200mほど歩くと、幹線水路があるようです。

県道17号線より低くなっている水田地帯へと下りて用水路沿いに歩くと、暗渠だった幹線水路の流れが見える場所になりました。道よりも2~3mほど低いところを轟々と流れています。

玉川上水を思い出させるような水路の両側に、さらに小さい水路が並行していてそれぞれの水田に水が配れているようです。

 

 

このあたりはここから北西へ扇状に広がる砺波平野の扇頂部のあたりになるようですが、どんな歴史のある散居村と水田なのでしょう。

 

JR西日本の「Blue Signal」というサイトに、散居村の歴史がまとめられています。

 弥生時代には水田耕作が行われた痕跡があり、奈良時代には東大寺の荘園として、砺波の米が奈良の都に運ばれていた記録が正倉院の史料にも残っている。しかし、庄川は大変な暴れ川で、氾濫する度に家々を流し、膨大な土砂を堆積した。そんな扇状地が本格的に開拓されたのは加賀藩時代。庄川に堅固な堤防が築かれ、河道が固定した後に多くの人々が入植するようになった。

 

 1619(元和5)年『利波郡家高ノ新帳』によると、散居村の形態はこの頃には成立していたようで、藩政期を通じて「加賀百万石」の相当の石高を担ったという。出村さんはその成り立ちをこう話す。「最初の頃は、扇状地のなかでも条件の良い微高地を選んで家を構え、家の周囲に田畑を拓いた。家の周りに耕作地があると田植えや稲刈りなどの農作業も水の管理も手近にできて、もっとも合理的で効率が良いからです」。家々が寄り集まる必要がないほど砺波平野は水利が良かったということでもある。

 

 明治時代までに開拓はさらに進み、大正時代には冬場の裏作にチーリップの球根栽培が始められる。砺波の気候風土が日本のチューリップ産地として農家に大きな富をもたらした。他にも今日、「となみブランド」に認定されている「庄川ゆず」や「種(たな)もみ」や「となみ野りんご」など特産品のどれも砺波平野の豊穣の恵みである。

 

 そして昭和期の半ば頃には欧米の農場のように近代的に整備され、用水路が網の目のように整備され幾何学(きかがく)的な美しい景観になった。今日、一面に点在する農家は約7,000戸。「かつては1万戸以上もありましたが、年々減っています。この景観は砺波の生活文化遺産ですから、ぜひ守り通したい」と出村さんは話す。

 

田植えが終わったばかりの水田の先に、黄色く色づいた麦秋の畑もありました。時々風の音が聞こえるぐらいの静寂の中、用水路沿いに歩きました。

 

 

 

*暴れ川だけでなく風も*

 

水資料館で購入した資料によると、この時には穏やかな風の音でしたが、時には「庄川嵐」となることもあるそうです。

A 稲を揺らす風(庄川嵐)

 日本が高気圧に覆われた天気の良い日の夜半 南の山から平地に吹く風です

 江戸時代には この風が良い種籾を育てる 神秘的な力を持った風だと思われていた時期もありました

 庄川嵐は 夜間に冷えた山の空気が下降し 庄川扇状地に吹く風で「山風」とも言います

 

B 吹き荒れる風(フェーン現象

 日本海に低気圧が入ってくると 南の山から平地に吹く風で 人家に被害を及ぼすこともある強烈な風です

 不思議な事は この風が吹き荒れている時は 南の山々はすごくはっきりと近くに見えることです

 小雨と共に 山が遠くに見えるようになると風が収まる時です

 太平洋側の高気圧から 日本海側の低気圧に向かって強烈に吹く風を「フェーン現象」と言っています

(「風の町 庄川」、庄川水資料館より)

 

稲を揺らす風は湿気を吹き飛ばして「病原菌がつきにくくなる」など利点もあり、また人家を吹き飛ばしたり大火になったり、この風とともに暮らしてきたことが書かれていました。

 

 

5月中旬、いちじくの小さな青い実がなっていました。

なんだか祖父の田んぼのそばを歩いているような感覚になり、どこまでもどこまでも歩いてみたいと惹き込まれていきました。

 

 

「米のあれこれ」まとめはこちら