石仏にいざなわれるように松川除けの堤防に辿り着きました。
そこから数十メートルほど北へ県道40号沿いに歩くと不思議な場所がありました。
県道と市道でしょうか二叉路になり、その中の窪んだような場所に真っ黒の瓦屋根の神社が建っています。
石段を降りてその周囲より一段低い境内に入ると、「用水神社」と大きな石碑がありました。
そばの別の大きな石に御由緒が彫り込まれています。
舟戸口用水は 文政三年に開墾された水路である
江下の高儀折 中野 五郎丸折 天木石丸 ⚪︎(*)住 戸出 市野瀬等三十七ヶ村の人々が五穀豊穣水難防除を願って嘉永二年七月京都北野天満宮より ご神像を拝受 嘉永三年九月伊勢神宮より ご神木を頂戴し舟戸神社を創建した 以来今日まで舟戸口用水の神社として長く崇敬 護持されてきた
平成二十二年砺波市市道拡張計画により神社は移転を余儀なくされた この機会に庄西用水の江下五千七百町歩 組合員九千余人の用水神社として 神社の荘厳を整え 崇敬奉賀することとなった 工事に当たって神社碑 碑 水鉢は庄川上流岐阜県庄川村より石を採取し奉納した
分口記念碑
舟戸口用水は舟渡場(合口堰堤付近)より取水しはたの折の六次郎口を分口としていた 明治二十九年の大洪水で水門が流出し 復旧困難となり分口を取水口とした
下流に隣接する鷹栖口用水では 取水に支障を来すと猛反対し大騒動となったが 和解し無事に取水する事となった
分口記念碑はその時に建てられた
平成二十四年九月 庄西用水土地改良区
(*は読めず)
ああ、このあたりがあの城端線林駅のあたりから見える白い柵に囲まれた幹線水路の始まりのようです。
地図にはない用水神社にまたまた水の神様にいざなわれ、期せずして舟戸口用水の歴史を知ることになりました。
そして二叉路の西側へとまっすぐ伸びるのが拡張された市道で、ぐいと曲がる道が県道40号でそれはかつての松川除けの二本の堤防のうち内陸よりのものが道路になったのでしょうか。
それは水記念公園へ向かう時に通ったバス通りで、歴史的にも大事な場所を走っていたことがつながりました。
用水神社の窪んだ境内はその堤防の下だったようです。
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