疲労困憊でたどり着いた柿田川湧水群ですが、最後の目的がありました。
ここにお城があったことを2019年に訪ねたときに公園内の案内板で知ったのですが、残念ながらその頃はあまりお城には関心がなかったので写真も消去してしまいました。
あの案内板をもう一度読みたい。
まずはそこを目指しました。
泉頭城(いずみがしらじょう)
泉頭城は柿田川の水源地泉頭に築かれた戦国時代(十五〜十六世紀)の城郭です。
城域は東西四〇〇メートル、南北五〇〇メートルあり、二の洞と三の洞に区切られた中央の本曲輪を中心に、これを取り囲んで北ノ曲輪、東ノ曲輪、西ノ曲輪、船付き曲輪小郭、第六天曲輪、南ノ曲輪があり、水源地の西側に堂ノ口出丸が築かれています。
それぞれの曲輪は泉ノ川と自然の深い洞、人工の空堀で防禦されており、土橋と木橋で結ばれていました。
この城は戦国時代の終わり頃には小田原後北条氏の持城で伊豆を守る国境の城としての役目を果たしていました。永禄十二年(一五六九年)後北条氏は家臣多目周防守と荒川清兵衛を城将とし、沼津三枚橋や清水町の戸倉城、三島の伊豆徳倉城と連絡して、甲斐武田信玄の侵攻に備えました。
天正八年(一五八〇年)武田勝頼の攻撃には、荒川豊前守、大藤長門守、多目権兵衛を城将とし、それに高橋、市南の足軽大将が各々百騎づつ従えて城を守り、戸倉城とは船で連絡していました。天正九年(一五八一年)戸倉城が武田軍に降参すると泉頭城のまわりの村々は武田軍の安井治太夫らの手によって焼き払われてしまいました。天正十八年(一五九〇年)豊臣秀吉の小田原征伐が始まると、後北条氏は泉頭城を破壊し、城兵は韮山城と山中城へ引き上げました。
元和元年(一六一五年)徳川家康は泉頭の城跡が大変気に入り、自ら老後の憩いの場所と定め、家臣土井利勝、本田正純に、隠居所造営を命じましたが、翌年早々、急遽中止となり、隠居所は駿府(静岡市)へと変更されました。
その後城域はまわりの村人によって開墾され、田や畑になりましたが、大正の頃まで城跡はよく残っていたということです。
湧水群にある泉頭城。
名前もいいですし、本当にここで日がな水面を眺めていることができたらなんと幸せなことでしょう。
歴史はよくわからないのですが、もし家康が隠居所を変更しなかったら…と思わず考えてしまいますね。
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