水の神様を訪ねる 83 芝原上水の用水守護神と疏水への愛

観音町駅からえちぜん鉄道に乗り福井口駅で下車しました。

福井口駅で降りたのは、ここから西へ分水された芝原上水にはさまれるように福井城があるからで、地図に描かれている開渠部分をたどってみようという計画です。

 

高架橋を走る車窓から、下車直前にふと地図に載っていない神社が駅前にあるのが見えました。越前開発駅までえちぜん鉄道と並走していた芝原用水が、線路から少し離れて流れているあたりです。

もしかして水の神様かもしれないと、予定を変更してそちらへと歩きはじめました。

 

芝原用水沿いの道が斜めに県道128号線と交差する場所に、三角形の境内がありました。

 

川上神社の由来

 

御祭神

美都波能売命(みづはのめのみこと) 瀬織都姫命(せおりつひめのみこと)

大己貴命(おおなむちのみこと) 伊弉冊命(いざなみのみこと)

 

慶長年間(一六一〇年頃)結城秀康公越前の国へ御入部になり、芝原用水を定められた時、白山の麓に奉斎されていた、美都波能売命と、大野郡女神川上流に鎮座ましました、瀬織都姫命の二柱の神を芝原用水守護神として、この用水の上流松岡の地に遷座し、その後慶應元年(一八六五年)此の水神の信徒壱萬より芝原用水郷の中央の志比口「現在の地」に御移転を願い、大己貴命と伊弉冊命とを合祀して川上神社と称へ、芝原用水郷、福井城地の町家の浄水とし、水神の徳沢を崇敬しました。

 諸々の なり出るもとは水の神

  もらさてめくむ 御祖なりける

 

昭和二十年七月の戦災、三十二年漸く再建、四十五年四月不慮の火災で消失し、翌年四月神殿、拝殿、玉垣、再び建立しました

 清川の川辺に立ちて つみとがを

  其の日その日にかきながさばや

 

 

福井城下の地下水は鉄分が多く上水に適さなかったために開削された芝原上水の水の神様も、戦争の後12年かけて「ようやく再建された」ということが「由来」に書かれているのも、市民の心は戦争のあとの混迷からなかなか抜け出せず社会は荒廃したという記録でしょうか。

 

 

*疏水愛功碑*

 

広い境内の片隅に「疏水愛功碑」と彫られた立派な石がありました。

あちこちを散歩するようになってこうした「〇〇碑」に目が行くようになりましたが、この場合「疏水愛 功碑」なのか「疏水 愛功碑」なのだろうかと初めてみる単語でした。

 

検索すると「72マイルの流れ」という先人の記録がありました。

 江戸時代は福井藩によって厳重に福井市内の上水が管理されていたが、明治時代になってからは民間の芝原陽水委員会が管理していた。明治18年に起きた足羽川の氾濫で大打撃を受けた上水を復旧させたのは、芝原用水委員会の人達の尽力によるところが大きかった。

【 碑文には民間の人達の喜びと感謝の気持ちがつづられている。】

【 福井市上水道は大正時代までは九頭竜川から取水していた。】

 

「疏水愛功碑」(2022年2月25日)

 

ブログは昨年の記事のようですが、こちらのブログには木製の案内板が写っていました。

 この疏水愛功碑は明治十八年の足羽川の水害で壊れた芝原用水を修復した記念の碑です。

民間の芝原用水委員会の人達の努力で、福井市民の命の水が守られたのでした。

 令和4年 芝原を美しくする会

まだ建てられたばかりの案内板のようですが、今年5月に訪ねた時には見かけませんでした。

 

「愛」という言葉が使われているので、現代の石碑かと思っていました。

疏水にも「愛」を感じるようになったのは、人道や博愛という概念とともに日本人の感覚が大きく変化した時代だったのかもしれませんね。

 

水の神様と疏水への愛。

当時はどんな雰囲気だったのでしょうか。

 

 

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