水のあれこれ 303 旧吉野川右岸と勝瑞城跡

川を訪ね歩くようになって、「旧」がつく川にはだいたい放水路があることが見えてきました。

最初にそれが意識されたのが2019年に豊川と豊川放水路を新幹線で通過したことがきっかけで、地図をみると「分岐点からの二つの流れが、直線と蛇行と対照的」だったことからこの目で見てみたいと豊川沿いを放水路との分岐点まで歩いたのでした。

ほんと、数年前はまだ川についての認識もそんなものでした。

 

旧荒川とか旧利根川といった江戸時代からの河川の付け替えで開削された川にしても、明治以降に造られた放水路にしても、その河口付近はだいぶ河道が整理されて描かれているのですが、旧吉野川吉野川の複雑な線は他に類を見ないと思うほどでした。

 

吉野川はどんな川なのだろう、どこを歩こうかと思っていたところ、JR鳴門線勝瑞駅の近くに城跡があるのを見つけました。

吉野川から数百メートルのところにお堀らしき水色に囲まれた「勝瑞城跡」があり、さらに県道14号を挟んで勝瑞城跡公園があります。

あの豊川沿いにある吉田城は高台にありましたが、お堀に囲まれている場所の地名は「新田」ですから平地なのでしょうか。

どんな場所なのか歩いてみたいと思いました。

 

 

*勝瑞城を訪ねる*

 

駅からまっすぐ県道14号に向かう道にところどころ水田がありました。水田のそばには各地でさまざまな揚水ポンプがあることが多いのですが、大きなU字型の管が逆さになったものは初めてみました。どこから水がどのように田んぼへ送られているのでしょう。

 

県道に突き当たったその先に、美しい水田地帯にこれまた美しい堀に囲まれた小さな森のような場所が「国指定史跡 勝瑞城跡」で、その中にお寺がありました。

その反対側に広い敷地があって現在も発掘調査が行われているようですが、Wikipedia「勝瑞城」の「居館」を読むと「本丸と呼ばれる「勝瑞城跡」と三好実休の居館跡は「勝瑞城館跡」」とあり、堀に囲まれた場所に本丸があったようです。

 

見渡す限り平地で、この広い敷地の周囲にも水路がありました。

 

Wikipediaの「勝瑞城」の概要に築城された当時の様子が書かれていました。

勝瑞城は鎌倉時代から安土時代まで、淡路国讃岐国阿波国の政治、経済、文化の中心地として、天下の勝瑞として名をなし、日本の中世史上重要な城跡である。

吉野川の南岸の自然堤防上に位置し、東側には今切川、南側は湿地帯に接している。現在は吉野川の本支流に囲まれた吉野川平野の低湿地帯中央部に位置するが、当時は湿地帯が多く、川幅も広く攻めにくい地形であったと思われる。海岸線も現在より内陸部にあり水上交通も便利で、紀伊水道を隔てはいるが、京畿への往来も容易であった。当地域は暴れ川「四国三郎」の分支流の多い地域で、平地の要塞というよりも、守護の居館、政庁としての性格の強い城で、城の構えは広大であった。室町時代の守護所の機能をよく伝える貴重な遺構である。

(強調は引用者による)

 

城跡の南側は現在の吉野川の左岸地域ですが、新川として開削されるのはそこに微高地のような高低差があったと想像していたのですが、見渡す限り湿地だったのでしょうか。

洪水の「自由蛇行」によってできた地形で生きるというのは、どのような暮らしだったのでしょう。

 

*旧吉野川の歴史*

 

歴史を人物関係から覚えるのが苦手なのですが、Wikipediaの「勝瑞城」の「沿革」に「防備を怠り酒池肉林の生活を続けていた」「人目をはばからぬ乱倫ぶり」とか、助言をされても態度を改めなかったなど奢った城主が続き天正10年(1582年)に廃城になった経緯が書かれていて、なんだか現代を重ねてしまいました。

 

一時は荒廃したようですが、その後の歴史はどんな感じだったのだろうと検索していたら、「旧吉野川の歴史」(独立行政法人水資源機構 旧吉野川河口管理事務所)がありました。

河口の新田開発

吉野川下流の海に近い地域での新田開発は1585年(天正13年)から始まり、その後17世紀にかけて大規模な開発が行われ、農業用水の大部分は今切川や現在の旧吉野川から取水されることになりました。

 

もしかするとバスで通過した空港周辺の「開拓」がつく地域の歴史もこの時代でしょうか。

 

そのサイトに「旧吉野川年表」がありました。覚書のために書き写しておこうと思います。

1585年(天正13年) 吉野川下流新田開発始まる(16世紀〜17世紀にかけて大規模に行われる)

1605年(慶長10年) 慶長南海地震 阿波国土佐国(現在の高知県)・紀伊国(現在の和歌山県)・伊豆国(現在の静岡県)で大津波がおこる

1672年(寛文12年) 新川堀抜き 新川(別宮川:現在の吉野川)が本流になり、旧吉野川は水不足になる

1707年(宝永4年) 宝永南海地震 マグニチュード8.4、死者2万人、潰家6万、流出家屋2万。阿波国に大津波がおこる

1752年(宝暦2年) 第十堰の築造 旧吉野川の利水がよくなる

18世紀後半〜19世紀前半 天明・文化・天保の大飢饉 風水害と蝗害(イナゴの食害)が原因

1801年(享和元年) 享和元年の洪水

1849年(嘉永2年) 嘉永の大水(別名「阿呆水」) 中喜来、広島などが洪水になる

1854年安政元年) 安政南海地震安政東海地震 阿波国で200人以上の死者がでる

1857年(安政4年) 安政の大水 住吉新田などの堤防が切れる

1866年(慶応2年) 慶応2年の豪雨徳島平野全域が大洪水にみまわれる

1892年(明治35年) 台風と高潮で豊岡海岸堤防が全壊

1912年(大正元年) 大正元年の洪水 徳島平野全域が大洪水にみまわれる

1932年(昭和7年) 別宮川を「吉野川」、第十樋門地点から流れ込んでいた吉野川を「旧吉野川」と呼名を改める

1934年(昭和9年) 室戸台風 県内死傷者・行方不明者384人、被害家屋2万数千戸に及ぶ

1946年(昭和21年) 南海道地震 県内で死者202人

1949年(昭和24年) 水防法制定・水防団設置

1950年(昭和25年) ジェーン台風 島原漁港、豊久大手海岸堤防などが決壊する

1961年(昭和36年) 第2室戸台風 松茂町内堤防29ヶ所が決壊し、被害家屋約1500戸に及ぶ

1971年(昭和46年) 板野東部消防組合設立

1995年(平成7年) 阪神・淡路大震災兵庫県南部地震

 

この行間にはどれほどの生活を築くためのあえぎのような声があることでしょう。

 

日本史がちょっと苦手だったのに、一本の川からまたその地域の年表を知る機会になりました。

年表というのは、災害史とか土木史とか、視点を変えて見れば見るほど違う世界が広がっていきますね。

 

 

 

 

「水のあれこれ」まとめはこちら

「城と水」のまとめはこちら