落ち着いた街 48 「水利にたけたジャワ」のような風景

東南アジアにいるかのような幻覚に陥り、この地域に豊川用水を引くという壮大な計画を思いついた方の願いを思い出しました。

 

*近藤寿市郎の豊川用水構想*

 

Wikipediaの「豊川用水」の「沿革」で豊川用水建設を提唱したのが近藤寿市郎であることを知り、その「豊川用水構想」を読んでみました。

 

日露戦争後の1905年(明治38年)、渥美郡の農民は天水や井戸水に頼る他なく、度々干害被害に遭っていた。近藤寿市郎は国民の生活を安定させるためには、開墾開拓、土地改良、灌漑用水等を行い、食糧を増産する事が必要であると考えていた。1921年(大正10年)当時、愛知県の議員だった寿市郎は、東南アジアへ単身視察に行った。その時にジャワ島で見たオランダの農業水利事業をもとに、奥三河宇連川に大貯水池を築き渥美半島などへ灌漑用水を建設する計画を思いついた。自叙伝「今昔物語」の中で、寿市郎はこう回想している。

パンジャル付近に行くとなんとなく空気も変わってきて風も涼しくなってきた。段々山へ戻るので山の中腹をウネリウネリして進行すると、山と山の間に見える水田は遺憾なく開けている。(中略)谷川の水利は高い高い山の山頂まで鉄管にて取り傾斜面の山腹は段を刻んで棚田をなし、ジャワの農耕は実に水利がたけていて至れり尽せりで、僕はこれを見て鳳来寺山脈に堰堤を築き大貯水池を設け豊川に落とし渥美郡を始め東三の灌漑用水を作るべきヒントを起したのである。

 

私が1990年代半ばに見たルソン島少数民族の棚田はおそらく地下水を利用したものではないかと思いますが、20世紀初頭のジャワ島には鉄管で送水する棚田があることにまず驚きました。

 

そして大正時代だと航路で何日もかかるであろうジャワ島へ、単身で出かけて視察する近藤寿市郎の強い決意も印象に残りました。

 

 

*「近寿の三大ホラ」から一世紀*

 

おそらく意気揚々と帰国して夢を語ったのだと思いますが、「大風呂敷」「世紀の大ボラ」と一蹴されたようです。

 

豊川用水構想を県会に提出する際、三河湾を日本屈指の港として整備し、浜名湖三河湾を結ぶ運河を建設すること、渥美郡羽村池尻川を避難港兼漁港にすることを同時に提唱した。しかしながら、当時としてはあまりにも壮大な話であったために、それらの提案はまとめて「近寿(こんじゅ)の三大ホラ」と言われた。

 

その後も力説し続けたにも関わらず、戦争により計画は立ち消えになり、戦後再び豊川用水構想が進められ1968年(昭和43年)に全通したものの、その完成を見ることなく近藤寿市郎はこの世を去ったようです。

 

 

実際に歩いてみると、渥美半島には大きな河川がないだけでなく、豊川用水が通っている高台を境にして小さな川は北の三河湾へと流れてしまい、高台から南側の遠州灘に沿った地域はほとんど川を見かけませんでした。

 

近藤寿市郎が生まれ育った地域の様子が書かれています。

寿市郎の出身地である渥美半島赤羽根地区を含む表浜(遠州灘に面した区域)一帯では、かんがい用水だけでなく、飲料水、生活用水の不足にも悩まされていた。赤羽根は土地が高く水が出ないので、雨水をためたり、井戸水をかめにためたりして使用した。共同井戸から家庭に水を運ぶのは主婦やこどもの仕事であり、重労働であった。寿市郎の出身地である高松町の隣の地区(田原市大草町)出身の作家である山田もとの「水の歌」には、しゅうとめに教えてもらいながら寒空に水くみをする主人公のようすが描かれている。

 

「高台に豊川から水を引いてくれば、ジャワのような農村になる」

きっと目の前が明るくなるような思いで、ジャワの風景を眺めたことでしょう。

 

そして半世紀後にはその構想が実現し、さらに半世紀後の現在の渥美半島の「表浜地区」の航空写真を見るとちょっと鳥肌が立つ美しいパッチワークのような畑の風景が広がっています。

 

後に一つめのホラは現在の宇連ダムおよび豊川用水として実現し、その恩恵により東三河地域は日本屈指の農業生産地に発展したため、近藤寿市郎は「豊川用水の生みの親」として地元で地元で尊敬を集めている。また、二つめのホラも一部は現在の三河港として、三つめのホラも1952年(昭和27年)に遠州灘における唯一の第四種漁港として指定を受け現在の赤羽根漁港として、いずれも戦後になってから実現されている。

 

海が近い地域独特の陽光の明るさと、油椰子のような木があちこちに植っている南国のような風景の中に、棚田ではないけれど畑が整然とつくられている集落が続きます。

水路そのものを見ることはできなかったけれど、豊川用水無くしてはこの風景はなかったのだと思いながら歩きました。

 

 

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