なんだか渥美半島をぐるりと歩いてしまいそうな壮大な計画でしたが、出だしから距離感を間違えたことに気づきどんどんと計画が削られていきましたが、なんとか高松町のバス停までは歩ききりました。
途中、「伊勢、志摩、鳥羽まで24キロ」という表示がありましたが、伊良湖岬からフェリーでという意味ですね。近いのか遠いのか、歩き疲れた頭では混乱してきました。
高松バス停から豊鉄バス伊良湖支線下りのバスに乗る予定でしたが、時間があったので一つ先の高松一色バス停までもうひと頑張り歩くことにしました。時刻通り到着したのは大きなバスでしたが、途中で先客が下車すると乗客は私一人になりました。
立派な日本家屋に蘇轍と秋の草花が咲いて美しい家々が国道42号線沿いに見え、それまでは自然堤防で気配も感じられなかった海が見えてきました。
高台に開けた街は赤羽根町で、近藤寿市郎氏の生まれ育った街です。
赤羽根港には立派な漁船が並び、山側には水田が開け、街道沿いには灰色の瓦の古い街並みにおしゃれなカフェも風景に馴染んでいます。
明治時代の「人類のために」と当時は実現不可能な話と笑われても志を貫いた人たちが各地に出現したことで現代の風景があるのだと、ここでも思いました。
バスは海岸沿いの高台を進み、時々真っ青な遠州灘とそして遠く伊勢の方まで見えました。
沿道には豊かな農村の風景が続きます。
豊かなというのは、家々が立派なだけでなく格差が少なく見えました。
堀切海岸で防潮堤の建設場所を過ぎると、県道2号へ曲がり内陸へと進むと今までの風景とは違って平地の中を進み、終点の保美(ほび)バス停に到着しました。
最初の計画では、ここから北側へ渥美湾に面した地域が地図では干拓地に見えたのでそこをぐるりと回ってお昼ご飯も食べるというものでしたが、全然時間が足りずやり残した宿題になりました。
*保美から豊橋へバス路線で渥美湾沿いを走る*
保美から豊橋へは三河田原駅から豊橋鉄道で戻るつもりでしたが、地図を見ていると保美から豊橋まで直通のバスがあり、しかも海岸沿いを通るようです。
これに乗ってみようと思いました。
高松バス停のあたりではフィリピンの女性がいたし保美バス停にはマレーシアかインドネシアの方々がいて、ふとここは本当にジャワ島ではないかという錯覚に陥りそうでした。
近藤寿市郎氏も、現代のこの風景はさすがに想像しなかったことでしょう。
伊良湖本線上りのバスが、私だけを乗せて出発しました。農協の建物の前に胸像が見えたのですが、もしかすると近藤寿市郎氏でしょうか。
高台の開けた場所を走ると、訪ねるのを断念した干拓地らしき場所と遠浅の渥美湾が広がっている風景が見えました。
そして途中から内陸へと入り、畑が広がり始めました。今方のあたりからは水田地帯で、収穫後のひこばえが美しい風景です。
田んぼへの用水路は見当たらず、それぞれの田んぼに水栓が見えたのでこのあたりにもあの豊川用水東部幹線水路からの水が来ているのかもしれませんね。
渥美半島の背骨のような丘陵地帯に三角の山が見えたので四国を思い出しました。
相変わらずバスは私一人独占状態なのに、道路は渋滞気味で途中の道の駅は車でいっぱいでした。
渋滞のおかげで水田地帯をゆっくり眺めることができましたが、この辺りも地図に描かれていた水色の線は排水路のようで、田んぼへの水は水栓で調整しているように見えました。
沿道にフィリピン料理とサリサリストア(フィリピンの街角にある何でも屋さん)が見えたあたりから、また高台で起伏のある場所に入りました。
梅田川を越えてピンクの壁のハートセンターで、東南アジアか中近東か、こども連れの女性が乗ってきましたが聞きなれない外国語でした。
起伏のある場所を過ぎるとまた干拓地と思われる水田地帯で、五分取とか水神下といった興味深い地名があります。
しだいに豊橋駅が近づいてくると右手が崖のような森が小浜まで続いているのが見えました。
そのあたりには品井潟、中洲という地名があり、かつての海岸線を想像できますね。
そうこうしていると両側にチェーン店が増えて突如として市街地になり、また渋滞し始めました。乗客も少しずつ増え、16時10分すぎに豊橋駅に到着しました。
渥美半島の南側と北側の風景の違いと川の流れ方がわかる車窓の散歩になりましたが、渥美湾の干拓の歴史をもっと訪ねたくなりました。
困りましたね。
*おまけ*
ところで、今回初めて「伊良湖(いらご)岬」だと気づきました。2019年4月12日の記事には「伊良子(いらこ)」だと勘違いしたまま書いていたので訂正しました。
地名を正確に覚えるのは本当に大変ですね。
「散歩をする」まとめはこちら。