水のあれこれ 169 矢作川

今回は残念ながら矢作川の上流は行けなかったのですが、それでも流れ込む支流や矢作川沿岸の風景を見ることができました。

 

東海道新幹線に乗ると、豊川放水路のあたりまで集中して川を眺めたあとは、ちょっと気が緩んで「ただ今三河安城を定刻通りに通過しました」のアナウンスで我にかえるのですが、矢作川を見逃してしまう理由が、それほど川幅がなくあっという間に通過するからでした。

ある時、川岸の「一級河川 矢作川 国土交通省」の表示が目に入りました。なんと読む川だっけと思いながら通り過ぎたほど、知らなさすぎました。

 

今回の散歩の前に地図で旧矢作川を見つけ、今の矢作川放水路の一つだったのだとわかりました。

その水の歴史をもう少し知りたくなりました。

 

*「矢作川の歴史」*

 

Wikipediaの「矢作古川」を読むと、江戸時代初期に分流されていたようです。

矢作古川は、矢作川のかつての本流であったが、氾濫(はんらん)を抑えるため江戸時代初期に、今の愛知県西尾市安城市碧南市の境に新たに開いた水路が現在の本流になった。 

 

 

国土交通省のホームページの「水管理・国土保全」に、「矢作川の歴史」がありました。

室町時代(〜1400年頃)までの改修」に、あの岡崎の六名や乙川について書かれていたので、実際に通った場所の風景が重なります。

室町時代(~1400年頃)までの改修

 

天正末期(1586~91)頃までの矢作川は、原始以来のいわゆる乱流そのもので、網の目のように沖積低地を分流しており、低地には自然堤防が次第に築造されて行きました。14世紀に六名堤の築造と乙川の矢作川合流が行われていました。乙川の開削により、当時の岡崎城への舟運を利用した物資運搬の利便性が向上し、六名堤により乙川旧水路を締め切ることで、六ツ美地域の発展にも寄与しました。15世紀半ばには西郷氏等の本流築防の部分的工事が行われましたが、現在のような河道になったのは、豊臣・徳川氏の統一権力による大規模工事によるものです。

 

江戸時代の改修 

 

矢作川の大規模工事の初めは、文禄3年(1594)豊臣秀吉の命令で岡崎城主田中吉成が行った、中流域西部・南部の河道一本化工事です。

しかし、この工事によって、遊水池(妙覚池)などが消失したことで、水害が激増しました。そこで慶長10年(1605)徳川家康が米津清右衛門に命じて、現西尾市矢作古川の分流点より米津町油ケ淵流入地区までの大地を開削して、現矢作川本流の川筋が築造され、舟運も可能となりました。

 

今回の散歩の計画で、西尾線は旧矢作川や矢作川、そしてたくさんの川や水路を越えるので、途中下車をしてみたいと直感した場所が、この歴史に重なったのでした。「米津駅」で途中下車しようと思ったのですが、「米津清右衛門」につながるのですね。

 

そして、明治時代に明治用水が作られ、昭和に入って矢作ダムが建設されたことが書かれています。

広大な三河平野を流れる矢作川は、明治・枝下の二大用水をはじめとする数多くのかんがい、あるいは、水力発電等において、地域に大きく貢献してきました。一方、洪水の脅威と不安定な流況は地域の開発の妨げとなることから、地域の安定した発展のための洪水調節と利水を合わせた、多目的ダムとして矢作ダムが建設され、昭和46年3月に完成しました。

平成12年9月の東海道豪雨時には、約800m3/sの洪水調整を行い下流被害の拡大を防ぎました。

 

本当はこのダムの近くの小渡までバスで行く予定だったのですけれど、残念でした。

 

 

それにしても、川を訪ね歩くようになる前は、地図に描かれている川は「自然な川」と思い込んでいました。

江戸時代どころかそれ以前から、人の手によって作り変えてきた歴史をなぜ知らなかったのだろうと、 ちょっと冷や汗が出る感覚に陥ります。

 

次回、矢作川を通過するときには、歴史を思い返しながら、瞬きを惜しんで風景を見てみようと思います。

 

 

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