医療介入とは 42   <主体的なお産とはどのようなことか>

「自然なお産」や「アクティブバース」「フリースタイル分娩」などには、必ずと言ってよいほど「主体的なお産」という表現がでてきます。


それに対して「分娩台」というのは、「主体的なお産」の対義語的な「受身のお産」「産まされるお産」などのメタファーなのかもしれません。


主体的なお産て何だろう。
そんなことを何回かに分けて考えてみたいと思います。


<「主体的なお産」の使われ方>


では実際にどのように「主体的なお産」やその同義語が使われてきたのでしょうか。


「アクティブ・バース」の著者ジャネット・バラスカス氏は、著書の中の「日本の読者のみなさまへ」の中で以下のように書いています。

問題は、近代医学が出産を管理するようになったことにより、自然な生理的な機能とはどう働くものなのかということが忘れ去られてしまったところにあるようです。この本を書いた私の主なねらいは、産婦を分娩台に仰向けに寝かせて両足を固定し、足を地につけることも、重力の助けを借りることもできない状態にしてしまったのは、産科学が犯した最大のあやまちの一つであると示すことです。女性の体は、このような状態で、効率的なお産ができるようにつくられていないのです。

(中略)また、妊娠期間を通じて、一連の簡単な体操を続けることを最も重要なこととして提案しています。そうすることにより、自分の中にある子どもを産むための本能に、気づくことができるようになるからです。このような内的な気づきがあれば、産婦は自身を持って子どもが誕生するまでの日々を過ごすことができます。

「分娩台を使用した近代医学による管理的な出産」に対して、「自分の内側からの本能による出産」としてアクティブ・バースを提唱しています。


この本が出て十年ちょっと過ぎた頃、日本でも「分娩台よさようなら」(大野明子氏、メディカ出版)が出版されました。
著者がジャネット・バラスカス氏の本に大きな影響を受けたことが書かれています。

「アクティブ・バース」という言葉を聞かれたことはありますか。アクティブ・バースは、イギリスのバース・エデュケーターであるジャネット・バラスカスさんが提唱する造語で、精神的にも肉体的にも、主体的で自由な体位のお産とでもいうような意味です。

そして分娩台でのお産について、大野氏は以下のように書いています。

そもそも、「分娩台に上がる」という言葉には、およそ主体的な人間らしい響きはありません。そこには押し寄せる大きなものに逆らえず、医療に身を任せた非力で受身の女性があります。それならば、とりあえず、あっさり分娩台から下りてしまったらどうでしょう。そこには肉体的な自由のみならず、精神的な自由があり、自由は主体性と人間らしさをともなっています。そして分娩台が実はいかに邪魔であったかにきづくのです。アクティブ・バースを提唱したバラスカスの精神もそこにあります。


こうして「主体的なお産」とは「分娩台の上では産まないことを選択する」意味として、社会に広がってきたのではないかと思います。


9月8日の記事で紹介した厚生労働省科学研究の「科学的根拠に基く快適で安全な妊娠出産のためのガイドライン」の中の「RQ(リサーチクエスチョン)14:分娩中、終始自由な体位でいるか」でも使われています。
http://sahswww.med.osaka-u.ac.jp/~osanguid/RQ4saisyuu.pdf

背景
 分娩第1期では、分娩までの時間がかかることや産痛緩和を目的に、自由な体位で過ごしていることが多い。しかし、継続的CTGや点滴を実施している場合、妊婦の体位が制限されることがある。同一体位の継続は産婦にとって身体的、精神的苦痛が大きいと考えられる。また分娩第2期において、分娩台での仰臥位分娩は医学的管理のしやすい体位のためわが国では一般的に行われている。最近では、産婦の主体性や自然志向を尊重し、座位分娩やフリースタイル分娩が行われるようになった。


主体性とは何だろう。
分娩台が産婦さんの主体性をあたかも奪うもののようにとらえられるのはなぜなのだろう。
産む人と医療側、たとえ分娩台を使わないお産を積極的に進める医療者であっても、それぞれの「主体的なお産」の受け止め方は同じなのだろうか。



そんなことをぼちぼちと続けてみたいと思います。