医療介入とは 59 <近代産婆と仰向けのお産> 

「自然なお産」や「温かいお産」、「昔のお産は良かった」のような内容のものを読むと、一番もやもやするのが昔の産婆(近代産婆)はすばらしいと賛美する一方で、その近代産婆が社会に広めていった「仰向けのお産」を医療介入として批判している矛盾です。


昔の産婆さんの聞き語りを良いようにつぎはぎして、実態もない理想のお産が過去にはあったかのようなイメージがどんどんと作られてしまったのではないかと思います。


時期的にいえば、1950年代までの家庭分娩が主流だった時代の助産婦が理想像のように持ち上げられているのではないかと思います。
でも実際には、明治時代に入り近代産婆の時代からその1950年代頃の助産婦もまた「仰向けのお産」を勧めていたことがいくつかの記録でも残っています。


出産の姿勢がどのように、そしてなぜ変化してきたのか考えてみたいと思います。
といっても、私の推測にすぎないものですが。


<旧産婆の時代から近代産婆の産む姿勢の変化、いくつかの文献より>


「叢書いのちの民俗学1 出産」(板橋春夫著、社会評論社、2012年9月)の中に、いくつか出産の場所や産む姿勢について書かれた箇所があります。

 敦賀市常宮のサンゴヤは天井から力綱が下がり、浜砂を敷き、その上に藁とムシロを敷いてそこで出産した。座産による出産方法であった。食事は家族と別火で調理することになっているなど、ケガレ意識が強く、30日間過ごし、産屋を出る時はコヤアガリといって身を清めて着物を着替えてから家に帰ったという。(p.103)

この福井県敦賀市のサンゴヤは1970年代まで使用されていたようです。


このサンゴヤ、産屋について以下のように説明しています。

 病院などの施設分娩が主流になる以前は、自宅で出産する場合が多かった。地方によっては妊婦の家族や地域社会の人びとがわざわざ妊産婦のために特別の場を設けることも行われていた。
一般的な出産の場は、自宅の納戸と呼ばれる日当たりの悪い奥の部屋を産部屋として用いた。しかも21日程度の忌みの期間があるというので、忌みが明けるまでは外出はもちろん、神棚の前を通らないようにしたりした。


座産から仰向けのお産に関しては以下のように書かれています。

出産方法のひとつである座産の古い形態は、天井からつり下げた力綱につかまって、後ろから抱きかかえられて出産する方法である。これはまさに「産み落とす」という表現がよく似合う出産方法であった。ほかにも、たとえば群馬県利根郡白沢村(現沼田市)では、うつぶせになってお産をした。そのほうが楽で力が入ったようである。同村に住み戦前戦後にわたって出産を経験した女性によると、仰向けで寝て産むのは力の入れようがなかったという。昭和初期には、ふとんを丸めてそれに寄り掛かり、伏せた姿勢になっていきんだのである。まず、藁のやわらかいものを敷いて、その上に洗ったふとん皮を敷いた。さらに油紙を敷いた上で産んだ。トリアゲバアサンが、下から持ち上げるようにして腰を抱えてくれたという。白沢村では、近代産婆が登場してから、ふとんの上でお産をするようになった。すなわち仰向けの姿勢の出産である。このような状況でも藁を三束、ふとんの下に入れた。こうするとお産が軽いという。(p.110)

ふとんといっても綿が入ったものではなく、藁の上に布をかけたものです。
この産褥布団について、「出産の文化人類学」(松岡悦子著、海鳴社、1985年)の中で開業助産婦の聞き語りの部分があります。この助産婦の母親(明治34年生まれ)が妹や弟を出産した風景を思い出して話しています。

そう。もう自分でちゃんと床作ってね。そこへ座っていたみたい。自分でできることは全部自分で用意していたみたい。こう畳おこしちゃってね。藁をしいてね。あれだったら全部通るから。そして藁のやわらかいところをむしろみたいに厚く敷いて。その上にきれを敷いて。産褥ぶとんですか。ふとんまでいかないね。お産したらそっくりそのまま捨てるの。藁といっしょに全部捨ててね、胎盤も全部ね。(胎盤については、上田さんの記憶ははっきりしていない)。そして別な新しい藁を敷いてね。そして一週間座って。そして一週間たったら、それもまた取って、畳敷いてふとん敷いてねるの。(p.47)

この聞き語りの中でも、ケガレからくる風習が昭和初期でも続いていたことが書かれています。

そう、一週間はね。正座のまま。辛かったでしょうね。そして一週間したら、ようやくふとんを伸ばしてね。昔はね、三週間は絶対産褥にあったんですよね。それこそ火のそばにきちゃいけないとかね。ストーブなんですけど、火のそばへきちゃあ、ばちが当たるとか何とかいってね。そばへくるんだったら、塩まいてから来いとかね。三週間過ぎれば、だいたい人並みにね。三週間巣の中にはいってなきゃだめだとかね。巣なんですと、産褥は。馬とか牛とかみんな巣の中で産むでしょ。巣の中でね。だから昔は人間も巣の中だったから、巣。産褥のふとんの中は巣だったんでしょ。


昭和初期あたりでは、まだ無資格の産婆による出産介助や無介助の出産もまだまだ行われていた時代でした。
「座って産む」「立って産む」ことは産婦さんの自由な姿勢というよりも、血のケガレからくる規制の部分が大きかったのではないでしょうか。


そしてこの開業助産婦さんは、自分が出産を介助するようになると寝て出産することを勧め、寝て産むことが楽だったという産婦さんがいたことを語っていたことは以前書きました。
「医療介入とは 41 <お産と重力>」
http://d.hatena.ne.jp/fish-b/20121105


明治の終わりから昭和にかけて、近代産婆が衛生思想の普及を第一にしていたことが別の助産婦の話から書かれています。

当時を省みると衛生思想が一般に低く、お産はきたないものけがれるものとし嫌われ、食物にもあれこれと悪いものばかりあっておかゆと塩で三日も過ごし、体の安静の必要等は知らないから、三日も寝たらよいものにて、そろそろと家事に立ち働くという有様、(中略)多くはさんぼろとして、わざわざ不潔なものを用いて平然としていたものであった。で、産婆は各家庭の衛生指導に全力を尽くし、(以下略)。(「出産の文化人類学」(p.56)

ケガレとして長期間、座った姿勢のままで過ごさなければならない風習がある反面、地域や階層によっては産後十分に休息をとれないまま働くことが当たり前とされていたと推測されます。

当時、産婆は医学教育を受けた母子保健の専門家であり、昔からの習慣などを改めさせる側であった。産婆がやめさせたお産の風習には、前節で述べたような座産や、畳を上げて産床を作る習慣、産ぼろの使用などがある。


当時の産婆や施設分娩に移行する昭和30年代(1950〜60)までの助産婦にとって、仰向けのお産というのは医学的な理由とともに、もっと社会的な面でも産婦さんの快適性に貢献した点もあったのではないか。


次回はその点を考えてみようと思います。