助産師だけでお産を扱うということ 2 <出産と医療、昭和初期まで>

2012年3月25日に「助産師だけでお産を扱うこと1」として日本で助産婦が出産の責任を負っていた頃のことを書きました。
http://d.hatena.ne.jp/fish-b/20120325


ずいぶんと間があきましたがその続きです。


「自然なお産」の動きの中で助産婦、特に開業助産婦が見直されるようになって、「医療を使わないで分娩介助をする」のが助産婦の誇りであるかのような表現をしばしば目にしました。


近代産婆の時代からそういう意識があったのだろうか。
そんなことを考えてみようと思います。


<古い慣習をなくし衛生的なお産へ変える困難>


明治32年(1899)以降の近代産婆や1980年代頃までの助産婦について、いままでいくつかの論文や書籍を紹介してきました。


その中では、明治から昭和初期にかけてあるいは地域によっては戦後まで、近代産婆や助産婦が出産の因習をなくし衛生的なお産を広げていくのに苦労した様子が書かれていました。


たとえば「長野県における近代産婆の確立過程の研究」(湯本敦子氏、信州大学大学院、平成11年)では、以下のような部分があります。
http://www.arsvi.com/2000/000300ya.htm

経済的な余裕ができなければ、現金を支払わねばならない、新産婆や医師にはなかなかかかろうとしなかった。ごくわずかな謝礼ですんでしまうトリアゲババを頼む方が当然とされた。(p.41)

1927年(昭和2)、長野市の若穂綿内地区で開業した山崎キヨの証言でも、「お産にゼニなどかけることはない、産婆を頼むと、脱脂綿を買えのどうのと面倒くさい、赤ん坊を産むのに他人を頼むなど恥である、などの気風が強かったため」に、開業初年はたったの10人しか取り上げることができなかった。
それが翌年、キヨが旧・川田村の巡回産婆になると、産婦は1円を村に納めればよかったので、客はいっきに60人に増えた。しかしこの1円を払うのが惜しく、経済的貧しさからトリアゲバアサンを必要とする人々がまだあったのである。キヨが「産婆に赤ん坊を出してもらえば安心」という評判を定着させるのには、開業から約10年かかったという。(p.42)

衛生的なお産、産科医学に基づいた近代産婆のお産を受け入れるには、経済的な理由が大きかったことがあるようです。


長野県では出産組合を置き、妊産婦に対する無料診療や訪問事業としての巡回産婆を行政側が後押しすることで、近代産婆が地域の中に受け入れられていった様子が書かれています。

ずっと昔から続いてきて、自分の母親も周りの人も同じに行ってきた習慣を、わざわざ変えようなどとは、簡単には思わないであろう。(p.42)

と著者は考えを書いています。


<医師による医療技術を広げることへの困難>


「ずっと昔から続いてきたお産」「自分の母親の周りの人も同じに行ってきた習慣」、そして「お産にゼニなどかけることはない」状況と言うのは、決して医療が必要とされていないほど安全なお産だったからではないことが書かれています。


今井村という地域の1935年(昭和10)の状況です。

167例のうち9例が死産であり、死産率に換算すると53.8であった。これは1935年における長野県の平均的数値にほぼ同じである。9例のうち5例は分娩時の難産による死産で、陣痛促進、鉗子(かんし)分娩、穿頭術(*)などすべて医師による機械的処置を受けている。このうち1例は分娩から14時間後に母親が死亡した妊産婦死亡例である。3例は子宮内胎児死亡あるいは早産による分娩、1例は骨盤位であるが、この4例には医師の診察の記録はない。医師による医療処置の記録があるものは、全部で9例あった。上記死産に至った例を含め、他に微弱陣痛や弛緩(しかん)出血に対する投薬、骨盤位による仮死分娩、過熟児のための鉗子分娩である。7例が同一医師名であるが、他に2名の医師がそれぞれ1例ずつに立ち会っている。(p.39)

(*「頭」は旧字体のため、引用者により変更)


お産で産婦さんや赤ちゃんが亡くなってもなにも手の施しようのない時代、それが「ずっと昔から続いてきたお産」であったし周りの人も同じだからという人々の認識は、あきらめともいえるものだったのではないでしょうか。


「4例には医師の診察の記録はない」というのも、近代産婆が「妊娠・出産は医療ではない」と考えて呼ばなかったのではなく、むしろ家庭での出産に医師と医療技術を引き入れることに苦労をしていた様子が書かれています。

 又近所の於産に経験ある人を頼んで置いて長時間痛んでも産まれぬ時、胎盤が下りないで困るとき、初めて産婆を頼みに来ると言ふ人もあり、或いは産婆が異常と診て医師の来診を乞えば役に立たぬ産婆だなどと種々宜しくない陰口を申したりします。産婆ならどんな難産でも取扱へる者だと思ふのでありませう。そして稀に開かれる講和会にも出席者は極少ないと言ふ上体であります。
殊に遺憾なのは近くに産科医のない事であります。生活程度の低い僻地の純農家には平均百円に近い金をもって居る人は滅多にありませんが、異常ある時、町の医師を頼めば往診料15円、手術に依っては25円乃至5,60円、俥賃3,4円、自動車は5円一時間の待料2円と言ふ様に掛かります為、家人が思い悩んでいる中徒ら(いたずら)に長時間苦しみ、或いは助かるべき命を失ふことがあります。場合と時間の都合により銀行も間に合はず近所の産婆その他の雑費は待って貰へるが、町の医師にはそれもならぬと、これでは思悩むも無理はありませぬ。(『月刊 信濃衛生』第二百十八号、大正十三年八月十五日)
(p.29)

産婆が異常と判断しても医師の診察の必要性を受け入れない住民に陰口を言われ、あるいは経済的問題から往診を悩む間に目の前で産婦さんの状態が悪化してなす術もない状態が多々あることが書かれています。


そして近代産婆自身が出産には産科医の力が必要であることが痛いほどわかっていても、現実には出産に医療を引き入れるまでには時間が必要でした。


「医療介入とは 59 <近代産婆の資料2 信州の産婆>」http://d.hatena.ne.jp/fish-b/20121208で引用した部分を再掲します。

近代産婆たちのもうひとつの役割は、出産介助を通して医療技術を人々の中に浸透させていく媒体となっていることである。近代産婆は診察や出産の介助を地域や家庭に出かけて行った。妊娠や産褥の異常時や難産の場合には医師を呼び、それによって鉗子分娩や陣痛促進剤の使用などの専門的な医療処置が、家庭分娩の中でも行われるようになっていった。その様子は『妊産婦台帳』の中に見て取ることができる。産婆自身が、「産科専門医の鉗子分娩術には目を見張」り、「専門でやっていた先生は違うな」と実感した以上に、一般の人々の驚きはさらに大きかったであろう。彼女たちの活動は、近代医学の持つ技術を家庭の中にもたらし、その後の女性や周囲の人々の行動や意識に影響を及ぼしていく。

それまでのトリアゲバアサンとは違い、医師が対応することで助かる命もあることをわかっている近代産婆にとって、往診を頼むことができない住民の経済状態や出産への認識、近くに産科医がいないことなどどれほど口惜しいことだったでしょうか。


「産科医がいてくれれば」「小児科医がいてくれれば」と思いながら、目の前で息絶えていく産婦さんや赤ちゃんを観ることは私にはとても耐えられないことです。
そういう時代には戻りたくないと思います。
わずか半世紀から一世紀前の日本のことです。


今回は昭和初期の近代産婆について書きましたが、次回からはその後の助産と医療についてもう少し書いてみようと思います。



助産師だけでお産を扱うということ」のまとめは「助産師の歴史」にあります。