医療介入とは 65 <仰向けの出産、近代産婆から助産婦へ>

近代産婆の時代になって、仰臥位(仰向け)の出産介助方法が広がったのはいままで紹介してきた資料の中にも書かれています。


そして1950〜60年代(昭和30年代)になっても地域によっては自宅分娩でなにかがあったら医師や助産婦を呼ぶような無介助分娩が行われていたようで、そういう場合は「昔ながら」の座産だった可能性があります。


「叢書 いのちの民俗学1 出産」(板橋春夫著、社会評論社、2012年9月)には、昭和30年代まで無資格のトリアゲバアサン(トリアゲバアサ)がいたことが書かれています。

 静岡県浜松市天竜区水窪町西浦の小塩すずは、実母がトリアゲバアサだった。すずは実母が臨終の場で「子を産ませることは人助けだで、やってやれ」と遺言を残したので、それを守ってトリアゲバアサになった。昭和35年(1960)、資格関係の法律がやかましくなってやめるまで、百人以上の子どもを取り上げたという。熊のお産は軽いといい、すずはいつも熊の手を大切に持ち歩き、熊の手で妊婦のお腹を撫でながら、「どうぞ無事によい子が産まれますように、南無阿弥陀仏」と三回祈り、最後に「アブラウンケンソワカ」と必死に唱えたという。(p.108)


このブログを読んでくださっている方にはとても大昔の話のように聞こえるかもしれませんが、私が生まれた頃の話なのです。
私の同世代には、まだこうして生まれてきた人がけっこういるのですね。


この時期はまだ病院・診療所の分娩は全体の4割程度でしたが、この後急速に日本ではほとんどの出産が病院・診療所で行われるようになります。


1950年代に初めてできた有床の助産所での出産も、1970年代のピークの時期でも全出産の1割ほどでした。


その助産所でも1980年代から90年代までは、ほとんどが仰向けの出産スタイルだったようです。


<「アクティブ・バース」が日本に取り入れられた頃>


「アクティブ・バース」(ジャネット・バラスカス著、現代書館、1988年)の付録に「日本におけるアクティブ・バース体験談」として、開業助産婦だった水落ユキ氏の文が掲載されています。

 私は昭和22年に、助産所を開業いたしまして、以来40年間に7000人をこえるお産を扱ってまいりました。開業当時はみんな家庭分娩でしたが、30年代に入り施設分娩が主流になってきましたので、私のところでも少しずつ家庭分娩が減って、助産所へ来て産むようになりました。今では、原則として家庭分娩は受けていないのですが、どうしてもこちらへ来るのが間に合わない場合などは、私が行くこともあります。

ちょうど私が助産師になった二十数年前に書かれた本です。


少し横道にそれますが、1980年代終わり頃の開業助産婦さんたちはやはりこのような認識、つまり「自宅で出産するのではなく、助産所へ来て出産するほうがよい」という認識があったのではないかと思います。


当時のように交通手段も通信手段も不便な時代に専門職が自宅に赴くというのは時間のロスであったことでしょう。
自宅を訪ねるまでに助産婦もお産に間に合わないこともあったでしょうし、同時進行している複数の出産を見ることもできないわけです。


さらに医師を呼んだり医療処置が必要な場合にも対応が大変になります。
そういう意味で、すでに当時の助産婦の中では家庭分娩というのは過去のものであったことが私の使った教科書からも読み取れることを、「医療介入とは 55 <物のなかった時代のお産>」で書きました。http://d.hatena.ne.jp/fish-b/20121126


さてこの水落ユキ氏は、1980年代当時でも先駆的にアクティブ・バースを取り入れていかれた方のようです。


はっきりした年はかかれていませんが、1980年代に日本の各地の病院で「アクティブ・バース」の講習会を開いたピアスさんというオーストラリア女性と出会い感激したことがきっかけであったと書かれています。

 ビデオを見てもうひとつ感じたのは、昔日本はこうした自然の格好をしてお産をしていたということです。私が開業した当時も、年に何人かは踏み台を前に置いて寄りかかったり、あんかに布団をかぶせて、その上に手を置き、お尻をあげて産む人がいました。彼女たちは、「今までもこの姿勢で産んだから」「この方が楽だから」と言っていました。中には横向きがいいと言って、横になったまま産んだ人もいます。私はそれを素直に取り上げていました。
 その講習会の後、私も実践で取り入れることにしました。うちの助産所でお産をする人は、母親学級に1回参加してもらいますが、そこでしゃがみ産やよつん這いの姿勢のことを話ます。すると中には、その方が楽そうだという人がいて、今まで20例くらい取り上げました。みんないいお産でした。


この場合の「昔日本はこうした自然の格好をして」というのは、この水落氏ご自身の開業した昭和22年(1947)以降の話のようです。


同じ頃の他の助産婦の苦労話を、「医療介入とは 59 <近代産婆と仰向けのお産>」http://d.hatena.ne.jp/fish-b/20121203と「医療介入とは 61 <近代産婆と急がせないお産>」http://d.hatena.ne.jp/fish-b/20121206で書きました。
その北海道で開業助産婦をしていた方や香川県伊吹島助産婦Nさんが赴任したのが、昭和21年頃の話です。
そしてお二人とも、座産を含め昔からの出産方法や風習を変えることに苦労されていました。


水落助産院は都内にあったので、昭和22年当時は同じ日本でも住民の中の衛生面や出産に対する考え方も出産環境も大きな違いがあったのだろうと推測します。


Nさんたちは、座産しか選択のない地域で会陰裂傷や出血による母体の危険と臍帯巻絡(さいたいけんらく)の児の危険を減らそうと仰向けにすることを勧め、あるいは藁や灰、産ボロの上での出産から布団の上で衛生的な出産をすることを勧めていたのに対し、水落氏は座産に対して「そういう出産方法を選択した人もいた」という昔の思い出話程度の話であったことが興味深いです。


また当時水落氏の助産所で、「今までもこの姿勢で産んだから」「この方が楽だったから」と横にならずに産んだ女性たちも、前回の記事で書いたように出産時に産婦さんは横になれない時代が続いてきたことを考えると、本当に「主体的」に選択したかどうかは疑問だと思います。


産む人が自由に立ったり座ったりしていた「昔の日本」が、こうしてみても本当にあったのだろうかと思うのです。
自由では決してなかったのだろうと。


そして昔の出産のけがれという思想や風習がほとんどなくなった1980年代に、それを変えていった助産婦さんたちの苦労話は忘れられ、座産が「昔の古きよき時代」の出産方法かのように一部の助産婦の中で復活していったことになります。
しかも、苦労をした助産婦と同年代だった人たちであったわけです。


助産婦になったばかりの頃の私は1980年代終わり頃にこの本を読んで、「昔は自由な姿勢で産んでいたのだ」とするりと信じてしまったのでした。