助産とは 11 <階層を越える手段>

明治時代、あるいは大正・昭和初期に近代産婆の資格をとろうとした女性には、それまでのトリアゲバアサンとは大きく異なる職業意識があったのではないかと思います。


「出産と生殖をめぐる攻防  産婆・助産婦団体と産科医の100年」(木村尚子著、大月書店、2013年)では、次のように書かれています。

 産婆養成が本格化する1890年以降、産婆という職業によって階層を越える機会を得た女性は少なくない。免状を得た産婆は通常さらに一定期間、開業産婆のもとで見習いをするなどして実地を学び、のち多くは個人事業主として開業した。都市部の熟練した産婆には多数の顧客と弟子や産婆見習いをかかえる者がおり、このような産婆はしばしば相当の収入を得て社会的にも高く評価された。

すなわち、女性が、学歴や職業あるいは経済力によって、出自を越えて社会的地位を形成することのできる時代の到来でもあった。とりわけ、大学医学部付属など一部の産婆養成所を除いては、入学するには小学校卒業程度という学歴条件を満たせばよく、農村出身の女性らにとっても選択しやすい職業のひとつであった。
(p.44)


<再び、「遊郭の産院から」より>


前回の記事で紹介した「遊郭の産院から 産婆50年、昭和を生き抜いて」(井上理津子著、河出書房新社、2013年)に、当時産婆がいかに経済力があったかわかる聞き語り部分が数多く出てきます。


兵庫で開業していた前田たまゑ氏が、産婆見習いになった頃の回想部分では、住み込み先の先輩との会話があります。

「そやそや、ほんで、稼いで稼いで、稼ぎまくろうや」
と笑う気さくな先輩の口調に、早くも緊張が解けたたまゑは、
「そうですねん。私、子どもの頃から貧乏やったから、稼ぐためにも産婆になりたいと思ったのですわ」
思わず、本音をもらしてしまった、とたまゑは思ったが、先輩らは気にとめない。
「私らかて、そうやで」

その当時の産婆はどれくらい利益を得ていたのでしょうか?

 帰り道に、竹信は産婆の礼金の仕組みを教えてくれた。本山村で開業している産婆十二人でおおよそ決めている礼金は十円、お客さんに聞かれたらそう答えることにしているが、困っている家からは三円か四円もらうだけのこともあるし、裕福な家が十円以上を包んでくれればそのまま受け取る。

竹信というのは、たまゑの師匠にあたる産婆です。たまゑを含めて3人の助手がいて、月50〜60件の分娩を扱っていたようです。

 十円で月五十人とすると、竹信は月に五百円も儲けているのか。気が遠くなる高級取りだ。いずれ私も、と思うとたまゑの胸は高まった。


講談社現代新書の「『月給百円』サラリーマン 戦前日本の『平和』な生活」(岩瀬 彰著、2006年)の内容をまとめたサイトには昭和初期の物価が拾い出されていますが、「女中さんは月十円」「三井物産の国立大卒で80円」「女性は男性の半分以下」とあります。


当時、女性が月に500円を稼ぐことがいかに高給取りであるかがわかります。


<医療を受けるということは借金を抱える時代>


前田たまゑ氏が産婆として稼ぐことに「胸を高まらせる」理由も書かれています。

 母が「お産の後遺症」でなくなってから、もう十五、六年経つ。なのに、月々の返済がいまだに続いているのだ。だから私は、お産がらみで死ぬ人を亡くし、うちのように借金であとあとまで苦しむ家族をなくすために、産婆を目指したのだ、と改めて思う。

前田たまゑ氏が6歳の時に母親が亡くなったそうです。
その回想を、長くなりますが引用します。

 母親は、父親の後妻に入った人やったんです。先妻は長男を産んだ後に死んだはるのね。私の母親は次兄と姉と私をコロッと安産したのに、四人目に死産してしもた。田舎のことやから、とりあげ婆さんの後の処置が良うなかったんやろ。
 死産のあと貧血起こして、微熱が続いて首のリンパ腺が腫れたらしいの。田舎のお医者はんに診てもろうたら、切らなあかんて、ようやく良うなったかと思うとまたあかん。微熱は出るわ、リンパ腺は腫れるわでらちがあかんと父親が思ったんでっしゃろ。同じ行くんやったら京大病院や、てなことになったらしいの。京大病院の婦人科へ入院したんやわ。
 当時は保険もくそもおまへん。薬やら注射やらものすごいお金がいったらしいて、田地田畑を売ったり、親戚や銀行から借金したりしたらしいんです。
 「田んぼ売って注射○本」「○○から借金して、薬一週間分」とか、父親やら兄やらがよう言うてた。

妻二人を出産で亡くした父親は、子どもをおいて出家してしまいます。
親戚の家に引き取られた前田たまゑ氏は、まるでおしんのような生活をおくりながらなんとか尋常小学校(4年)と高等科(4年)を卒業し、看護婦見習いとして遊郭の近くにある病院に住み込み、その後産婆になります。


産婆として営業許可が与えられた時代でなければ、前田たまゑ氏は借金によって社会の最底辺の生活から脱することもできなかったことでしょう。


「産婆になって稼ぐ」
この一言に込められた思いをたどっていくだけでも、現代の助産師が描いている「助産」とは全く違う歴史があることがわかります。




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