水の中ー海、国境のない海へ

ブログのタイトル「ふぃっしゅ in the water」についてはこちらの記事で、胎児が生活している羊水と泳ぐことが好きでつけたことを書きました。


先日村井吉敬氏の訃報を聞いて以来、私の30年ほどの東南アジアとの関わりが走馬灯のように思い浮かんできます。


そしてブログのタイトルは、東南アジアへの思いを意識したものでもあったことに気づきました。


<海をながめて>


東南アジアで働いたのはインドシナ難民キャンプでしたが、たいてい多くのキャンプは海のそばに作られていました。


さんご礁の続く浜辺は、日本では見たことのない美しいエメラルドグリーンでした。
少し沖合いの、さんご礁が終わる境のところに白波がたって外洋がみえる風景を、昼休みになるとぼーっと眺めていました。


誰もいない浜辺を独り占めしていました。


こんなに美しい海が目の前にあっても、見ようという人はいませんでした。
ベトナムから難民として逃れてきた人たちにとって、その海はボートピープルとして生死をさまよった記憶を思い出させるものでしたから。


またベトナムでは海岸部で生活していた人たちが多かったので、故郷の生活や海を思い出させるものだったことでしょう。


海外旅行であれば美しい風景であったのですが、私にとって東南アジアの海はベトナムへ続く海でした。


<海、漁師のひとたち>


日本も島嶼国ですが、東南アジアも無数の島々で成り立っています。


舗装されていない道を車で何時間も揺られて行くよりは、船を使ったほうが快適で早い場合もあります。


船といっても、バンカといって一人が座れるぐらいの幅で長さ数メートルぐらいの、バランスをとるためのアウトリガーがついた漁船です。


まずは漁村に立ち寄って、漁師との交渉から始まります。
燃料代を含めて代金が決まると出発します。
マングローブの林を抜け外洋に出ていくと、そこには方角の目印になるものは何もない世界でした、私にとっては。


漁師のひとたちは普段はその船を使って漁をしています。
ナビゲーターも何もない、小さな小船で。


「1960年代ごろまでは、魚はいくらでもとれた」
「一回漁に出るだけで、家族を養い、子供たちを学校に行かせることもできた」
「いくらでもとれるけれど、自分たちはその日に必要な分だけとっていた」


「ところが、1970年代に入ってからは沖合いで大型漁船が魚を根こそぎとっていくようになって、今は魚がとれなくなってしまった」
その国のあちこちの漁村で同じ話を聞きました。


1977(昭和52)年の200海里経済水域設定の影響を受けていたのでした。


「根こそぎ魚をとって、高級な魚は日本へ行くんだ。いらない魚は海に捨てているのだ」と。


東南アジアのエメラルドグリーンの海は、私にもうひとつ漁師のひとたちを思い出させるものになりました。


<国境のない時代があった>


日本を出国し、そして帰国する際にはパスポートが必要です。


海外に行くときには必ずコピーを持ち、何度もパスポートの期限が切れていないか、バッグのどこに入れるかなど確認して緊張します。
出発の前日には、空港でパスポートが見つからなくて必死に探している夢を見てうなされるほどです。


日頃、意識していない国境や国というものを考えさせられます。


東南アジアの某国に住んでいた時、その地域には漂海民と呼ばれる人たちがいました。


陸地には住まず、代々船の上で生活をし、船の上で一生を終える人たちです。
その範囲は広く東南アジアのあちこちで暮らしています。


現金ではなくバータートレード(物々交換)で、国も国境も越えて自由に行き来している人たちが同じ時代に生きていることに私はとても感動したのでした。


そしてこの漂海民のひとたちだけでなく、東南アジアの海は沖縄あたりまで、人や物が自由に行き来していた時代がごく最近まであったことを知りました。


あーいつか私も船を乗り継いで、東南アジアの海を国境を気にせず旅をしてみたいと。
その夢は未だ果たせていないのですが、そんな思いを強くしていた時期にちょうど村井吉敬氏や鶴見良行氏に出会ったのでした。


「水の中」、それは国境のない海を意識していたのかもしれません。