助産とは 9 <「助産」はいつ頃から使われたのか>

一世紀というのは不思議な時間の長さです。


日本の代替療法の変遷の記事で、代替療法と近代医学に線引きが行われ現代医療が形作られてきたことを紹介し、「今、私たちが普通に病院のシステムと考えているものができて、たかだか50年ほどに過ぎないわけです」と書きました。


さらに今の20代あるいは30代ぐらいまでの方たちにとって、現代医療は物心ついた時からICU(集中治療室)が完備され、CTやMRIがある現在のような病院を思い浮かべるのでしょうか。


何度か書いたことがありますが、私が30年前に看護婦として働き始めた病院は、当時日本に3台しかなかったCTがある病院でした。
2床のICUがありましたが、それだけで日本でも屈指の最先端の病院でした。


それから数年後の1980年代半ばになって、一気に救命救急医療が充実して現在の病院や医療のイメージに近いものになっていきました。


同じ時代に生きていても、「病院」という言葉に含まれる思いも大きな違いがあることでしょう。


一世紀というのは、近すぎて物事が混沌としていると感じる時間です。


<「助産」という言葉ができた時代は?>


助産」という言葉はいつごろから使われるようになったのでしょうか?


トリアゲバサンの時代に「助産」という言葉は使われたのでしょうか?
よくわからないのですが、おそらく明治以降の近代産婆の時代に入ってではないかと思います。


こちらの記事で紹介した、「出産と生殖をめぐる攻防 産婆・助産婦団体と産科医の100年」(木村尚子著、大月書店、2013年2月20日)の中でいつ頃から「助産」という表現が出始めているか見てみようと思います。


上記の本、第1章の「2.明治初期における産婆教育の指針」から近代産婆教育の流れを抜きだしてみます。

厚生省などの記録では、1874年の医制制度を受けて京都、大阪、東京などの各地で産婆教育が開始されたとある。

また東京府は1876年、東京府病院内に産婆教授所を設け、新たに産婆を養成するだけでなくすでに開業している者に再教育を施し、また産婆の営業には必ず許可を要するという旨の布達をする。この産婆教育の指針として採用されたのが、ドイツの産科医・シュルツェの産婆学書である。

およそ140年前に近代産婆の教育が始まった時点では「産婆」教育であり、その教科書はのちに「朱子産婆論」として訳されたシュルツェの「産婆学書」であったようです。


同書では、その後「朱子産婆論」は「産科学」の医学書であり当時まだ低い教育しか受けていない産婆の教育に用いることに対する当時の議論を追っています。


そしてドイツ留学から帰国し東京大学産婦人科教授になった濱田玄達が、1891年に日本の産婆向けに「産婆学 前編」を出し、その10年後に「普通産婆学 前編」を出しています。


このあたりではまだ「助産」という言葉はみられません。


初めて同書で「助産」が使われるのは以下の箇所です。

 濱田は、1901年の「普通産婆学 前編」刊行に先立ち大学を退官し、教育者としての第一線を退く。その後に出版された産婆学書の多くは、『朱子産婆論』と同様に「正規」「異常」を区分した上で、「正規」のみを産婆が、「異常」を産科医が扱うものとする。そして、産婆の領域となった「正規」の範囲を狭めていく。その代表的なものが緒方正清の『助産婦学講義』(1906年と、緒方病院内産婆養成所の教員・東條良太郎(1869-1937)と土肥衛の共著による『新撰産婆学』(1906)である。

1906(明治39)年、緒方正清による『助産婦学講義』。


助産婦」という名称が産婆にとって変られるのは、ずっとあとの1948(昭和23)年の保健婦助産婦看護婦法によるものです。


1906年当時は産婆であり産婆養成であった時代に、突如として使われた「助産婦」という印象があります。


緒方正清氏が生み出した言葉であるのか、それともそれ以前から使われ始めていたのかわかりません。


また「産婆学」に対して「助産学」ではなく、「助産婦学」であるのはどうしてなのでしょうか?


わからないことだらけですが、緒方氏のこの『助産婦学講義』に対する想いが書かれた部分を長くなりますが引用します。

 緒方は、東京大学在学中に婚姻を機に大阪の緒方病院の養子となり、1890年前後にドイツなどへと留学する。帰国後、同病院の産婦人科長になるとともに助産婦養成所を設立し、1906年に最初の産婆学書『助産婦学講義』を発行する。同署は『朱子産婆論』の分類をほぼ踏襲しており、その著作はシュルツェ産婆学の直輸入ではないかと考えられがちだが、実はそうではない。緒方は、『朱子産婆論』と同様に「正規」の範囲を狭く分類した上で、産婆の職分をこの「正規」のみとする。つまり、濱田が先鞭をつけた産婆と産科医の境界線を、彼が新たに引き直したということである。

緒方によれば、「正規分娩」とは「所謂人の助けを要せずして天然の力により自ら出産するものを云ふ」のであり(緒方1906:199)、産婆は「自然分娩を補助するに止まる者」である(同:3-4)。緒方が分類した「正規」すなわち「自然分娩」が後頭位のみであることを考えれば、産婆の領分が極端に狭められていることに気づく。

これに対し「異常分娩」は「異常を生じ母体又は児体に危険を来すの恐あるが為に人の助けを要するもの」である(同:200)。このときの産婆の務めは、「速に医治を乞ふ」ことに尽きる。もし産婆が、「己の名利を貪らんが為助産学の範囲外に属する無謀の手術を行ふ時は之が為遂に医士(ママ)の施すべき適当なる手術の時期を失し不幸の結果を来たすに至るべし」と戒める(同:391)。

この中で「助産学」という言葉を緒方氏は使っています。


緒方氏が産婆に助産学を教えるための『助産婦学講義』。
何を考えて「助産」という言葉を使ったのでしょうか?
木村尚子氏は以下のように書いています。

すなわち同書の言う産婆とは、人の助けを必要としない分娩に「異常」が起こりうることを想定して念のために立会い、必要な場合に医師を乞うものでしかない。

現在からはなかなか想像できないほど「自然分娩」という言葉は残酷であった当時、産婆はどのような思いで「助産」という言葉を聞いたのでしょうか。




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