医療介入とは 83 <臍帯切断は医療行為以外の何ものでもない>

助産師学生の頃、初めて分娩実習に出る前の緊張感というのは人生の中でもそうそうないほどの緊張だったように思います。


特に臍帯を切断する手順は、学生同士でも何度もゴムチューブを使いながら練習した記憶があります。


<臍帯の血流を止める>


当時の教科書「母子保健ノート2 助産学」(日本看護協会出版会、1987年)に、書かれている臍帯切断の部分を引用します。

 結紮は、綿テープや臍帯クリップ、ゴムバンドを使用する場合が多いが、いずれも臍帯血管の血流を止める目的で使用する。
 綿テープの場合は、臍輪部より2〜3cmの所を、まずコッヘル鉗子で圧挫した後に外科結びをし、さらに1cmを残して切断する。
 臍帯クリップの場合も同様に圧挫した後、装着し、24時間後に除去する。
(中略)

臍帯を切断する前に、確実に臍帯内の血流を止める必要があります。


私が助産師になった頃はすでに臍帯クリップで止める方法になっていましたが、それでも万が一、便利な臍帯クリップがない状況で分娩に遭遇した場合に備えて、太い糸で結紮(けっさつ)する方法を学びました。


結び方が不十分だと切断した部分から失血する可能性があります。


「それまで児の生命を維持するために血液が流れていた」


もちろん、母体外へ出て啼き始めた新生児にとって臍帯の血流をとめることは「致命的」なことでは全くないのですが、この手で止めることが助産師の仕事であると緊張させられたものでした。


<臍帯、人体の一部を切断する>


教科書では、淡々と臍帯切断の手順が続きます。

 切断は、術者の手の中に臍帯を固定し、剪刀の刃先が自分の手掌で保護されるようにして切断する。これは児が手足を動かしているために損傷を予防する目的であり、剪刀を持つ時も、臍帯切断部位に当てるまでは必ず刃先を開かないよう注意する。


たった数行ですが、初めて本当の新生児を前に本当の臍帯を切断する時というのは、まさに「頭の中が真っ白」になるほどの緊張でした。


臍帯剪刀というのは、新生児を傷つけないように先が丸く加工されています。


それでも、人体の一部を切断するためのその切れ味は普通の医療用のはさみと同様です。


手足をバタバタさせている新生児の他の部分を挟んでしまえば、たとえばあの小さな指を切断してしまうこともあり得るでしょう。


確実に臍帯の部分だけを挟み、新生児の他の部分に刃先が当たらないようにする。

今でもそれは無意識に行うほど、身に染み付いた動きです。


そして、何よりも怖かったのは、人体の一部をこの手で切断するということでした。


それまで看護師として点滴や採血で人の体に針を刺すことは慣れていましたが、それとは比較にならない怖さと責任。
それが私にとって臍帯を切断するということでした。


<医療行為としての臍帯切断>


いつ頃からでしょうか、出産に立ち会う家族が臍帯を切るという話題が出始めたのは。
そして、それは批判ではなく「感動」の一部として伝えられるようになったのは。


医療行為としてへその緒を切る場合には、手が震え、頭の中が真っ白になるような緊張感を伴うものなのに、世の中には「自分でへその緒を切りたい」と思う方がいらっしゃること。
普通は、人の体をはさみで切断することは何か根源的な恐怖心を感じるのではないかと思うのですが、その感情の差になによりも私は驚いたのでした。


「へその緒を切りたい」と思い実際に切った方を批判するものではなく、どうしてそういう気持ちになったのかを知りたいと思うのです。


もしかすると、臍帯切断の前に臍帯と臍帯切断に伴うリスクを学ぶ数時間ぐらいの研修でもあれば、思いとどまる方も出てきたのではないかと思います。


「へその緒を切る」ことをリアリティを持って想像する前に、「感動」や「切ってみたい」という感情が強くなってしまったのではないでしょうか。


そしてその感情は、本当に自発的なものだったのでしょうか?
やはり、どこからか、誰からか、「切ってみますか?」という誘いがあったからではないでしょうか。


勧める人がいたからパンドラの箱を開けてしまった。
そんな話のような気がします。


そして、「夫や子どもがへその緒を切って、とても感動した」という方のお気持ちを今変えることは難しいと思いますが、
「やはり臍帯を切ることの怖さを何も知らなかったからできたのだ」ということを、心の奥でいいので認めていただければいいなと思います。