へその緒を誰が切るのか。
現在の日本では医師・助産師は法的に認められた医療行為で、救急隊員はやむない場合、つまり臨時応急の手当てとして臍帯切断が許されていると法的に理解しています。
でも実際には夫や子ども、あるいは産婦さん本人が「へその緒を切りました」という方がいらっしゃるようです。
この件については、琴子ちゃんのお母さんのブログでも長いこと議論がありました。
「『臍帯切断』をどう思うか 其の弐」では、以前の楽天ブログ時代に書き込んだ私のコメントをとりあげてくださっています。(琴子ちゃんのお母さん、ありがとうございます)
2010年1月14日ごろからの私のコメントを読み返しても、基本的には現在も考え方は変っていません。
・日本では法的に認められた者のみが行うべき医療行為であること
・新生児の安全という視点を最も優先すべきであること
また、臍帯を切ることに関するあれこれの中でも、「誰が切るのか」「価値観に対しては説得できない」ということについて書きました。
ただ、2010年当時の私はまだ「医学モデル」を重視した見方であったと思います。
あのあと、東日本大震災が起こりました。
その後の放射線に関する議論などを追っていく中で、「医学モデル」と「社会モデル」という言葉、あるいは「リスク比較」という言葉での視点が私の中に増えました。
なぜ臍帯切断時のリスク(感染や失血など)よりも、臍帯切断を法的に認められたわけではない自分(産婦さん・夫・子ども)が切ることの方が大事だと感じる人たちがいるのか。
あるいは、自分たち(医師・助産師)の監督下であれば、産婦さん・夫・子どもに臍帯を切らせることはかまわないし、有意義であると考える人たちがいるのか。
そう、それは誰にも説得させることができない「気持ち」あるいは「気分」の領域なのですね。
新生児の感染や失血の怖さよりも、感動が気持ちの中でうわまわること。
それは、誰にも「医学的理由」では説得させることのできない部分なのでしょう。
それが、「へその緒を誰が切るのか」を簡単には決着がつかない難しさなのかもしれません。
そしてそれが法的に定められた範囲を拡大解釈して、本来その行為を許されていない人たちが実行することが容認されていく。
「感動」ということで。
<リスクを予測する>
誰もが日常生活の中で、危険性を予想しながら生きていると思います。
「階段が濡れているから滑るかもしれない」「クレーン車が稼働中だから、下を通るときは物が落ちてくるかもしれない」・・・だから「気をつけよう」と。
リスクを予想するためには自分の経験だけでは不足で、他人の経験や情報などからリスクに対する想像力を日々増やしているからだと思います。
ところが、「急いでいるから」と気持ちを優先した時に、滑って「思わぬ怪我」をしますね。頭ではわかっていたはずなのに。
あるいは社会の発展に伴って新たな設備や機器が増えますが、それに伴う新たなリスクというのは意識的に認識しようとしなければ対応できないものです。
リスクを知らないのに「大丈夫」と思い込んでいまうと、思わぬ事故がおきます。
へその緒を誰が切るか。
なぜその価値観に対しては説得しにくいのか。
答えはでないかもしれませんが、リスクを予測するという点、そしてリスクを理解するという視点からもう少し考えてみようかと思います。