「子どもを守るために」ーダイオキシン問題の記憶ー

福島第一原子力発電所の事後後、半年ぐらいした頃だったと思います。
勤務先のクリニックで出産したお母さんに、偶然出会いました。


その方は、「放射線のことが不安で、関西の実家に行きました」と話されました。


言葉に表される以外のボディランゲージなどからそのお母さんが言いたかったことを理解するとしたら、今時の表現でいえば「怖くて関西の実家にいっちゃいました。テへ、ペロ」という感じでした。


「気持ちを説得することはできない」


こういう方にあえて、放射線被ばくについて科学的あるいは医学的な説明はあまり有効でないことは、それまでのニセ科学の議論などからも理解していました。



それとともに、「テヘ、ペロ」という部分は、今は落ち着いて現状を理解されていて、「あそこまでしなくてもよかったんですけれどね」と少し恥ずかしい思いが込められていたのだと思います。


ですから、「そう、心配でしたよね。どうなるかわかならない状況だったので」と相槌を打つだけで十分でした。


その方は、ちょっとホッとした表情でした。
おそらく周囲の友人・知人の中にも移転までした人は少なくて、この話をすれば「何でそこまで」と言われると思ったのかもしれません。



ダイオキシン問題>


大人に比べて、成長途上にある胎児を含む子どもたちへの健康への影響というのはより慎重に対応していく必要があります。


私が助産師になってから、今回の放射線被ばくに似たような「子どもを守らなければ」という危機感があったのが1996年のダイオキシン問題でした。


それまでベトナム戦争枯葉剤に使われて深刻な胎児奇形や後遺症の被害を起こしていた化学物質としてダイオキシンの名前は知っていましたが、まさか自分達の生活圏にその影響を心配することになるとは考えてもいませんでした。



特に周産期関係で問題になったのが、乳腺への蓄積と初乳、特に初産婦さんの初乳には高い濃度でダイオキシンが含まれることでした。


母乳をやめてミルクにしたほうがよいのか。
母乳を飲ませた場合の健康への影響はどうなのか。


1980年代後半までの母児別室、規則授乳、必ずミルクを補足する方法から、母児同室、基本的に母乳を中心にした自律授乳の方法が浸透し始めていた矢先でした。


現在のような「完全母乳」という言葉はまだ使われていない時期でしたし、臨床でも何が何でもミルクを使わないという雰囲気はなかったのですが、新生児のより自然な哺乳意欲に合わせた方法に戻すことができる時代に入ったところでの、まさかの暗礁乗り上げという感じでした。



新聞やテレビで連日のようにダイオキシンの危険性や母乳への移行のことが報道されていましたので、お母さん達からも質問がけっこうありました。



どのように、いつ頃、あのダイオキシンと母乳の問題が収束していったか、正直なところ今はあまり記憶にありません。


いつの間にか、落ち着いていったという感じです。


当時も、「子どもを守るために」とダイオキシン問題に取り組まれた方々の活動がありました。



なんといっても哺乳類である人間の危機といってもよい問題でした。



ただ、今思い返しても、ダイオキシンが問題になった直後にそういう市民運動の中で「母乳は危険だからただちに止めてミルクにするべき」という声はほとんど聞かれなかったと思います。


ダイオキシンと母乳、その影響がまだ十分にわからないうちは、ダイオキシンを新生児・乳児が体内に取り込まない確実な方法はミルクに切り替えることではあったはずなのですが。


そのうちに、結果的に、特に初産婦さんの初乳にはそれまで蓄積された濃度の高いダイオキシンが含まれるが、母乳を続けても健康への被害は心配しなくても良いという見解が広まって収束していったと記憶しています。



私はこのダイオキシン問題と今回の放射性被ばくの問題を比べた時に、「子どものために」という表現はやはり「気持ちの部分」がかなり大きいものであると思えるのです。


ダイオキシン問題の時には、多くのお母さん達の「母乳を飲ませたい」という気持ちがリスクの受け止め方に大きく影響したといえるでしょう。


今回の放射線被ばくの中で使われる「子どものために」という言葉には、どのような気持ちが影響しているのでしょうか。