放射線被ばくへの不安とニセ科学の議論

東日本大震災直後の混乱状態の時期に、出産を迎えた方々の不安はどれほどだったのだろうと思います。


しばらく強い余震が続く中、勤務中は余震がおきるとすぐに入院中のお母さんと赤ちゃんを訪室し気持ちをやわらげてもらえるように対応しました。


まぁ、これは災害時看護の安全確認として基本中の基本のことなのですが、あの時ほど頻繁な巡視を余儀なくされたのは、30年ほど医療機関で働いてきて初めてのことでした。


入院時には、いつでもお母さんが赤ちゃんを抱いて避難できるように身の回りの物を整理し、靴をベッドサイドにおいておく説明を徹底しました。
外来にも、この余震が続く最中に出産を迎えるための準備について貼り出しました。


お母さん達は皆、とても落ち着いて行動されていました。
内心はとても不安だったと思います。
ご家族のことも心配だったでしょうし、小さな赤ちゃんをこの非常時に守らなければならなかったのですから。


きっと10年、10数年前だったら、この目の前の冷静な女性たちも不安から高揚していた女子高生だったのではないかと思います。
人は成長するのだなぁと、妙なところで感心していました。


そして、放射性ヨウ素による水道水汚染が起きました。


さすがに、不安に対する質問がたくさんくるだろうと構えました。



ところが予想よりもはるかに質問される方も少なく、皆冷静に成り行きを見守っている印象がありました。


質問されてきた方にも、現在学会から出されている二つのお知らせ
をもとに説明すれば納得してくださっていました。


<あの当時、どのように判断していたか>



福島第一原子力発電所の事故直後には、あの冷却システムが復旧しなければどうなるかという大きな不安がありました。


無事に冷却装置が復旧し、今後の問題はそれまで放出された放射性物質の全体量とその影響を最小限にするための段階に入りました。


その時点では、概ね今回の事故による被ばくは心配しなくても大丈夫であろうということが、ニュースや信頼できる情報筋をもとに、私自身は理解していました。


退避勧告が出された地域でも、それは長期的にみた健康被害への不安軽減のために可能な限り被ばく線量を少なくするための対応であると受け止めていました。


ましてや、私が住む南関東ではほとんど心配のない状態であると理解していました。



<「子どもを守るために」という感情の高まり>


当時、ニュースでもネット上でも、子どもたちへの健康被害への不安や不安からくる行動がいろいろと伝わってきました。


原発事故直後よりも、むしろ今後の見通しがたってきたはずの時期から、ますます耳にする機会が増えたような印象があります。


事故直後にクリニックで接したお母さん達は概ね冷静だったので、今後は放射線被ばくに関する説明はそれほど重点を置かなくても大丈夫かと思いました。
が、私の場合はむしろ半年ぐらいたってからのほうがお母さん達の混乱が耳に入ってきました。


kikulogのこちらのコメントに書いたように、小学校の教師をされている二人目のお母さんから、クラスの中に給食を食べないようにお弁当を持たせている家庭があることを聞いたのは2012年1月のことでした。


その後も、やはり教師をしている別のお母さんからも同じような話をうかがいました。


ネットで耳にしていた話が本当にあること、しかも、南関東で事故後1年たっているのに現実的なリスクの話を受け止められないことがあることを知りました。


南関東に住む子どもたち、もちろん福島に住む子どもたちにも、今回の原子力発電所事故による被ばくは、実際には医学的には健康被害を引き起こすものではないと言われてもなお、子どものことが不安になるのはいたしかたないのかもしれません。


ただ、そろそろその不安は「大人」(自分)の不安を「子ども」に投影させているものであることに気づいてもよいのではないかと思っています。


放射線被ばくへの不安とニセ科学の議論>


東日本大震災の2年ほど前にkikulogに出会っていて良かったと心から思ったのは、このような「子どもを守るために」という感情が何(不安)から来て、どのような行動(善意と正義心)につながるのかということを、ニセ科学代替療法の問題から見えるようになっていたことでした。



kikulogの菊池誠氏が、よくコメント欄などで「気持ちの問題」「気持ちを説得することはできない」ということを書かれていました。


実際に、ホメオパシーなどがいかに科学的にはデタラメであるかを説明しても、ホメオパシーを良いと感じている方にはその説得は功を奏さないばかりが、むしろ心をかたくなにさせていくことをkikulogの議論でしばしば目にしました。


出エジプト記ー人の心のかたくなさ>


そういう議論の流れを見るたびに、私はいつも旧約聖書出エジプト記の意味を考えていました。


モーセが、エジプトの奴隷であったイスラエルの民を解放する場面です。
一度は解放することに同意したのに奴隷を手放すことが惜しくなったエジプト王ファラオが、十の災いによってイスラエルの民の脱出を阻止しようとします。


聖書は物語ではありますが、ここの主題はファラオ(人間)の心のかたくなさを表現したものだと理解しています。
私自身にも、もちろんあるかたくなさです。


ファラオのかたくなさは、たくさんの病死者を出し、最終的に「長子を皆殺しにする」という犠牲まで払ってようやく奴隷を解放します。



ホメオパシーの場合は科学的根拠が全く否定できるということ以外にも、ホメオパシーを信じた故のたくさんの犠牲がすでに世界中で報告されていました。
適切な治療を受けられずになくなったり、ホメオパシーに夢中になるあまりに家族が崩壊したりしています。
そして、日本でも助産師がビタミンK2の代わりにレメディを新生児に与えてしまう事故も起きました。


でも、ホメオパシーを心底信じ込んでいる人たちには、こうした犠牲が目にも耳にも入らないかのようでした。
犠牲者がでても尚、それを認めようとはしませんでした。
守るべきはホメオパシーであるかのように。


こういう方たちを説得することはできない。
あるいは、私自身もまたいつ何かを信じ込んで心をかたくなにさせてしまうかわからない。
そんな人間の怖さを感じていました。


理解することと納得するということは、全く持って別の次元の話であることをニセ科学の議論から学びました。


そのおかげで、ある人の言動が本当に現状を理解して「子どもを守る」ものなのか、自分の不安を投影して「子どもを守る」ものなのか、切り分けて見守ることが少しできるようになったと思います。


<おまけ>

出エジプト記では、もうひとつ、イスラエルの民の心のかたくなさも書かれています。


あれだけ奴隷から解放されることを望んでいたのに、モーセとともにエジプトを脱出できたはずのイスラエルの民は荒野をさまよう空腹や不安に耐えられなくなり、「あの奴隷の生活の方がもっとよかった」と嘆きます。


自分の心を解放するのはいかにむずかしいかということなのでしょう。





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