医療介入とは 95 <導尿とWHOの59カ条>

20世紀後半は、日本だけでなく世界中で「出産の医療化」の時代に入りました。


それまで家庭で有資格者の介助もなく分娩が行われていた国々でも、助産師(婦)という有資格者による介助になりました。
さらに産科医や助産師・看護師という専門職の介助をできるだけ多くの母児が受けられるようにするためには、分娩施設での出産という施設の集中化の流れは避けられないものでした。


「出産の医療化」は分娩の安全性を大きく向上させた反面、さまざまな医療処置などが女性を医療に従属化させてしまうという批判が起きました。


たとえば、「WHO勧告にみる望ましい周産期ケアとその根拠」(マースデン・ワーグナー著、井上裕美・河合蘭監訳、メディカ出版、2002年)の第7章では以下のような引用文があります。

母親に対して、その必要性の有無に関係なく、鎮痛剤、下剤、乳汁分泌抑制剤、坐浴、赤外線ランプ、温湿布、浣腸、会陰洗浄、スプレーといったさまざまな薬剤や治療の<継続指示>が適切とされた。下着は腹帯、乳帯、T字帯が標準であった。子宮底長、悪露、バイタルサインといった身体検査の定期的な実施は、母親になった女性にとって、自分が病院の患者であることを思い出させるものとなった。(Rush et al,1991)
(「ケアの医学モデル」p.228)

たしかに特にそれまで病院とは無縁だった人にとっては、病院の雰囲気でさえ緊張させることでしょうし、さまざまな医療処置にいたっては自分自身の非力感を起こさせるものにもなるかもしれません。


あるいは「医学的に必要」と言われていた処置が、本当に有効なのか、反対に有害ではないかという視点から問い直されました。


<WHOの59カ条で、どのように導尿が書かれているか>


1989年にWHOが出した「妊娠・出産の有効なケア」の日本語訳が、「WHOの59カ条お産のケア実践ガイド」(戸田律子訳、農文協、1997年)です。


その中で、導尿は「D しばしば不適切に使われたり、不適切に実施されること」としてあげられています。

9.導尿

(注)尿道口に細いチューブ(カテーテル)を差し込んで、膀胱に溜まっている尿を取り出すこと。産婦がもう自分で排尿することができず、胎児の下降をいっぱいになった膀胱が妨げている場合などには必要なこともある。しかし、日本では産婦が自分でトイレに行ける状態であっても、産後ルティーンで導尿される場合がある

この注は監訳者によるもののようです。


またもう一箇所、「分娩第二期のいきみ始めについて」の中でも導尿に関する記述があります。

いきみ始めるときや、その前に導尿をして膀胱を空にするルティーン処置がとられることがあります。しかし、この処置は必要ないばかりか、尿路感染症を引き起こす可能性があります。分娩第二期で児頭が骨盤内に深く降りた状態だと、導尿は難しいばかりか母体に傷をつけかねません。分娩第一期の間に、産婦が自分で排尿するように勧めるほうが賢明ですし、正常な出産ならふつうはそれでこと足ります。

この部分は「妊娠・出産の有効なケア」の98名の執筆者によるもののようです。
「それぞれ膨大な量の、しかも研究の性質による信頼性を考慮に入れながらケアの有効性についての論評を行っている」(「序章」より)とのことです。


<施設分娩以前から導尿は行われていた>


しかし、臨床現場で尿閉あるいは膀胱過伸展になるほどの尿貯留をしばしば経験すると、「処置は必要ないばかりか」や「産婦が自分で排尿するように勧める方が賢明で」と断定的に書かれてしまうほうが、科学的な思考とは言えないように思えます。


「家庭分娩」という言葉が助産婦教育で盛んに使われるようになった1950年代以前の時代の助産婦、つまり「昔の産婆さん」のイメージの人たちもまた、分娩介助セットの中に導尿カテーテルを準備していました。
現在のように感染予防のための使い捨ての導尿カテーテルではなく、何度も煮沸消毒して使うネラトンカテーテルでした。


出産までは自分で何の問題もなく排尿していた成人女性にとっては、導尿ひとつとっても自身の尊厳を傷つけられることになり得ることは私たちも十分に配慮する必要があると思います。


ただ、出産というのはそうした「自立」や「主体性」を崩されるほどの体内の変化を伴うこともあるということ、それによる影響を最小限にするために早めに医療介入が必要であるということは産む側も知っておく必要があるのではないでしょうか。


こちらの記事で、30年も前に出された「母乳育児成功のための10か条」は見直す時期ではないかと書きましたが、この「WHOのお産のケア59カ条」ももう白紙に戻す時期ではないかと思います。