境界線のあれこれ 7 <地図があることとないこと>

昨日書いた私の体験のように詳細な地図を持たない国というのは、いわゆる開発途上国だからだと思っていました。
測量技術や、印刷技術などが遅れているからだと。


でも実際に「地図を必要としていない」人たちと生活をしてみると、むしろ地図を必要とするかしないかは、価値観に由来しているのではないかと思えるようになりました。


私たちが日常使う地図というのは、正確な測量技術によって土地に境界線を引くことが基礎になっているともいえるかもしれません。
たとえば私たちの社会で都市道路計画や再開発の際に、いつのまにか自分の土地の境界線が5cmほど削られていたなんてことがあれば大問題になることでしょう。



<トーレンス登記制度>


1980年代から2000年初めの頃まで行き来した国の歴史に関する本を読むと、「トーレンス登記制度」がその国の社会の形成やその後の混乱に大きな影響を与えてきたという記述をよく目にします。


wikipediaではトレンスシステムとして説明されています。

英米法における土地登記制度であり、登記上の権利者が真正な権利者であることを国が保証するシステムである。
1858年、南オーストラリアで導入された。

土地登記の歴史は全くの素人なのでわからないのですが、日本であれば歴史の早いうちからこの「登記上の権利者が真正な権利者」という考え方になじんできたのではないかと思います。


ところが、土地は誰のものかで書いたように、「私たちの社会では土地の『所有権』はないし、地主もいない」「土地は神のもの。私たちはそれを借りているに過ぎない」社会においては、土地を個人の名前で登記するこの方法は相容れないものだったのです。


「なぜ神のものを、私の名前で登録しなければならないのか」と。
個人の名前で土地を登記させられることは、踏み絵と同じような精神的苦痛を伴うものである。
そういう社会があることに、私は思いも至りませんでした。


とりわけ、その国のイスラム教徒と少数民族の地域は植民地化とこのトーレンス登記法によって、その大地や海を失いました。


「大地とは、ただの土地ではなく生き方そのものである」
何度となく聞いた言葉でした。


土地を所有する概念のないイスラム教徒と少数民族の人たちは、他の地域からの入植者、その入植者もまた貧困ゆえの移住なのですが、その人たちを自分達の土地に受け入れました。
お互いに助け合うのは当然だと。


入植者は当時はまだ高価だった缶詰や日用品を、土地を貸してくれるお礼として渡しました。
それが「土地契約」の代価であるとは考えも及ばないイスラム教徒や少数民族の人たちは、それを受け取りました。
そしていつの間にか、土地が個人(入植者)の名前で登記されていったそうです。


これはイスラム教徒や少数民族の人たちからは、必ず聞かされた話です。
もちろん実際にはもっと複雑な状況があったとは思いますが、この地域だけでなく世界中どこでも似たような状況があったのだと思います。
もちろん、日本にも。
1980〜90年代には先住民の権利を守るための動きが活発になっていました。


<境界のない世界>


最初、その国で知り合った友人達が地図を「読めない」のだと思っていました。教育の問題なのかと。


でもそうした歴史や、現実にまだ隣の家との境もつくらずに生活している人たち、あるいは船の上で一生を過ごして海を自由に行き来している漂海民の人たちと過ごしていると、境界をしめす地図を必要とはしていないのではないかと思うようになりました。


もっと別のものを認知した独自の地図が頭の中に描かれているからこそ、道なき道を正確に進んでいけるのかもしれない、と。






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