前回のオマーンの水利システムですが、「ファラジ」とうのは「分ける」という意味だそうです。
水を分ける。
平等に分ける。
当たり前のような訳語ですが、その「ファラジ」という言葉には日本語には訳しきれない意味があるのではないかと感じました。
それは「土地は誰のものか」に書いた、私が暮らしていた東南アジアのある地域の雰囲気に通じるものがあるのではないかと。
「土地は神のもの。私たちはそれを借りているに過ぎない」
「私たちの社会では土地の『所有園』はないし、地主もいない。所有しているのではなく、神から借りているにすぎない」
こういう感覚には戻れないほど日本の社会は複雑で多様化しているし、どちらの価値観が良いか悪いか、あるいは正しいか間違っているかという話でもありません。
ただ、世界の中にはこういう生活を守っている社会がまだまだたくさんあるのだろうと思います。
<川と村の関係>
1990年代、インドシナ半島のメコン川流域開発がいろいろな意味で話題になっていました。
メコン川というのは中国のチベット高原を源に、ミャンマー、タイ、ラオス、カンボジア、ベトナムを経て南シナ海へ流れる長大な川です。
1980年代半ばにタイを旅行した時に、ミャンマーとラオス、そしてタイの国境にメコン川が接するゴールデントライアングルを訪れました。
山岳部ですから対岸が見えるし、想像していたほど大きな川ではなかったのですが、そこから徐々に水量を増やし、当時関わっていたラオス難民、カンボジア難民そしてベトナム難民の人たちの祖国を潤して流れる川であることに、日本で暮らしていた時の「川」とは規模が違う川が世界にはあることが印象に残ったのでした。
1990年代に暮らした東南アジアのある地域で、その地域の重要な川の上流に日本政府の開発援助でダムが建設される計画がありました。
メコン川のように何カ国もさまざまな文化や経済圏を流れているわけではありませんが、その地域には数部族に分かれたイスラム教徒と、またアニミズムの少数民族の人たちが住む地域が混在していました。
少しだけかじったその地域の歴史を読んでも、「土地は神から借りたもの」であっても土地をめぐる争いはあったようですし、「私たちはそれを借りているに過ぎない」も平和な楽園のようなファンタジーがあったわけでもなく、現実の使用をどうするかの方便から生まれた言葉なのかもしれません。
「水を分ける」という感覚に、より現実的な開発や経済の話がふって沸いて来た地域はその後、どんな変化を起こしているのだろう。
気になり続けていることを、この「ファラジ」からまた思い出したのでした。
それにしても、砂漠を見ておじけづいた30年前にオマーンのファラジのことを知っていたら、砂漠を怖がる必要もなかったことでしょうし、美しい緑と水路の街が広がっているその地域に、途中で立ち止まって旅行をしたかもしれないと残念ですね。
もっともっと、世界が広がっていた可能性があったことでしょう。
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