境界線のあれこれ 8 <頑丈なカプセルの内と外>

1980年代半ばに、東南アジアにあるインドシナ難民キャンプで2年間働いたことは何度か書いてきました。


海外旅行がまだまだ庶民の手には高値だった当時、東南アジアへ行くこと自体が危険なこととして受け止められていました。


軍事政権あるいは独裁政権下そして貧富の格差による治安の悪さと、衛生状態の悪さ、そして第二次世界大戦後の反日感情といったところが理由でした。


初めてその国に到着した日の、着陸直前の風景は今でも覚えています。
空港周辺にトタン屋根の民家が密集して建っていました。
滑走路近くのフェンスぎりぎりまで家というよりも掘っ立て小屋が作られ、なぜか空港敷地内の空き地にも人が出入りしていて野菜が植えられ、山羊までいました。


空港には国連機関の車が迎えに来てくれていましたが、その車に乗り込むわずかの時間と距離でさえ、タクシーの客引きをかわすのが大変でした。
空港に来ているタクシーは冷房もなく、ドアや椅子が壊れているのが目に入りました。


迎えの車に乗り込んだあとは、ふと緊張がとけて窓の外の風景をずっと眺めていました。
着陸直前にみた上からの風景がスラム街でした。
飛行機の窓からは見えなかった、信じられないほどたくさんの人が生活していました。
茶色い川はただの泥水ではなく、ゴミや汚水が流れ込んでいるものでした。


これが開発途上国なのだと。


2ヶ月ほどすると、首都であれば一人で行動するぐらいにはなりました。
でも今考えれば、オフィス街であったりショッピングモールのような治安も比較的良くて、その国でも経済的に安定した人が多い地域だけでした。


その国の9割を占めるとも言われている貧困層の人たちがどのように暮らしているのか、その地域に足を踏み入れる勇気はまだありませんでした。
難民キャンプも、そこで働く現地スタッフの生活も、その周囲にある普通の住民から見れば非常に恵まれた場所でした。


最初は半年の任期だったのですが、結局2年間を過ごすことになりました。


ゲリラ掃討作戦が行われているような軍事的に治安の悪い地域、あるいは犯罪の多い地域などを避ければ、かなりいろいろなところへひとりで行動するようになりました。


1年も過ぎる頃には「日本人?」と聞かれることも少なくなり、現地の言葉で話しかけられることが増えて、私自身がその国になじんできたことをうれしく思っていました。


難民キャンプ周辺の村の市場にもひとりで出かけ、そこで働く人たちともおしゃべりをするようになりました。
難民キャンプがあるおかげで地元では仕事が増えてお金がまわるようになった反面、医療や食糧を与えられている難民の人たちを妬ましく思う感情には根強いものがある印象でした。



どんなに地元の人たちと親しくなったつもりでいてもそれは私の一方的な思い込みにすぎず、見えない壁で隔てられているように感じました。



それは休暇で日本へ戻るときと、任期が終わって帰国する時の飛行機の中で一番感じました。
いつも、なにか私自身が透明のカプセルの中にいるような不思議な気持ちになりました。



たまたま日本に生まれた偶然だけであたえられた、頑丈なカプセル。
それを打ち破って外に出ることも容易ではないし、また内側に誰かを招き入れるにも硬すぎる・・・そんな感じでした。




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