散歩をする 318 佐賀から諫早、大村、そして佐世保へ

ただひたすら川と海と干拓地を見る散歩の2日目は、長崎本線に乗って佐賀の干拓地を車窓から眺め、そして諫早に向かい、そのあと大村線佐世保まで行く予定です。

 

クリークの広大さやその変遷を知れば知るほどもっと見たい場所が増えてしまいますが、今度は稲穂が輝く季節に自転車で回っていようかなとか計画はどんどんと膨らみます。

何と言っても九州は近いと実感しましたからね。

できればタイを2ヶ月かけてまわった時のように時間に追われずのんびりと訪ねてみたけれど、やはり2泊3日での駆け足のような散歩が限度でしょうか。

 

最初の計画では、せっかく諫早で途中下車するのなら島原鉄道の終点まで往復して雲仙岳を間近に見てみようと思いましたが、それだと時間が足りなくなりそうです。

古部駅で下車し海側からの締め切り堤防を見たあと、干拓の里駅で下車して干拓資料館を訪ね、そして干拓地を歩いてから諫早に戻ることにしました。

 

午後は、JR大村線に乗り大村湾沿岸の風景を見て佐世保まで行く予定です。

 

 *記憶を確認する散歩*

 

大村線に乗ろうと思ったのは、1980年代に大村市ベトナム人難民キャンプがあったので、いつか訪ねてみたいと思っていたことが理由です。

 

こちらの記事にこんなことを書きました。

1970年代、インドシナ半島ベトナムカンボジアラオスから戦火を逃れ、あるいは独裁政権下の抑圧的な状況から逃れるためにたくさんの難民が国外へと脱出しました。

 

世界中から若者が自主的に難民キャンプに集まり、自分にその時にできることをやって引き上げ、次の友人に活動をつなげて行く。

あるいは現地に直接向かうだけでなく、難民の人たちを受け入れた国側で難民の人たちが一日も早く定住先の住民として落ち着いた生活ができるように、自主的に支援活動が積み重ねられていました。

 

方やその頃の日本の社会といえば、インドシナ難民は対岸の火でしかなく、諸外国からの圧力でしぶしぶインドシナ難民をほんの少しだけ、しかも刑務所と同じように自由がない収容所に受け容れました。

 

記憶をたどりながら書いた一文ですが、これを書いてから9年あまりずっと、この書き方でよかったのか、私は当時の大村市の難民キャンプについてほとんど知らないではないかという思いの方が強くなってきました。

 

検索しても当時の大村の様子がわかるものがほとんど見つかりません。

一度は資料館などを訪ねてみたいと思っていました。

 

むしろなぜこの地域の方たちが、日本で初めてとも言える難民キャンプを受け入れたのか。

その経緯を知りたい、当時の雰囲気やこの地域の風土のようなものを知りたい。

そんな思いが強くなり計画に入れたのでしが、今回は時間が足りなさすぎて、車窓からの大村の風景を見るだけになっていまいました。

 

ということで、今度は2日目の散歩の記録がしばらく続きます。

 

 

「散歩をする」まとめはこちら

合わせて難民についてのあれこれもどうぞ。