「革命」の意味で引用した日本大百科全書(ニッポニカ)の「革命の歴史」を読んで、そこには書かれていないけれど、1980年代前後の東南アジアや中南米も激動の時代だったなあと思い返しています。
1980年代半ばに私が暮らしていた国も、革命のような時期がありました。
長いことその国を支配していた軍事独裁政権が倒される日が来たのです。
当時働いていたのは難民関係の国際機関だったので、「その日が来るらしい」ということは、上層部はかなりピリピリしながら情報を把握していました。
国内はどのような混乱が起こるか、しばらく無政府状態のようになるのか、そうなると難民やスタッフをどう保護するか、今考えると私には想像もつかない判断をボスたちは迫られていたのだと思い返しています。
私が働いていたのは首都から遠く離れた島で、特に出国命令も出ませんでした。
むしろ、その地域に待機していた方が安全ということだったのでしょう。
ただ、その島にも反政府ゲリラと呼ばれる人たちと政府軍が頻繁に衝突している地域がありましたから、政府が倒れることでどんな状況になるのかは想像がつきませんでした。
ニュースで伝えられる首都の緊迫感に比べて、その地域では不気味なほど静かでした。
誰もが固唾を飲み込んで状況を見ているので静かなのかと思ったのですが、「その日」も「その日以降」も、いつも通りでした。
こちらが拍子抜けするほど。
反政府ゲリラがその機に乗じて何かをするわけでもなく、20年以上も国民が怯えてきた独裁政権とはなんだったのだろうと、不思議に感じるような平穏さでした。
一時閉鎖されていた空港も、確か2〜3日で通常通りに難民の人たちを第三国へ定住させるために使われ始めました。
「その日」からさらに1年ほど、結局は歴史的な日を実感することもなくその島で働きました。
*「その日」から数年後*
それから数年後、1990年代に入ってその国で再び暮らし、行き来するようになりました。
首都はたしかに発展していて、国際空港で待機するタクシーもドアが壊れたタクシーはなくなっていたし、ショッピングモールやビルが増えていました。
でも一歩路地を入れば、その日その日をなんとか生活している人たちの小さな家がぎっしりと集まり、ゴミや汚水が入り混じった中でおおぜいの人が生活をしていました。
地方へ行けば、外国人が村に入ることが警戒されているのは同じですし、貧困や人権問題に対峙しようとするとサルベージされ亡骸がニュースで映されるといった恐怖政治がまかり通っていました。
情報を得ようとするだけで殺されるような社会にあって、草の根運動がどこを切っても金太郎のように統一されたものになってしまうのも仕方がないのかもしれません。
独裁政権が倒れて数年経ったのに、あの「連帯」という言葉を心の支えのようにして闘っているのでした。
「その日」の前後の静けさは、大統領の首をすげ替えても容易に社会は変わらないという受け止め方だったのでしょうか。
そろそろ、あの頃のあの国の全体像がわかるような本が出てくるのではないかと心待ちにしています。
「記憶についてのあれこれ」まとめはこちら。