境界線のあれこれ 9 <「母乳推進運動」と「ミルクを買わせないための政治的運動」の境界>

私自身は助産師になってからずっと母乳育児支援が好きでしたし、関心も人一倍あったほうだと自負しています。
初産婦さんで赤ちゃんがうまく吸い付けない場合やお母さんが不安が強い方などは電話やメールでフォローし、来院していただいたり時には自宅に伺って一緒に考える機会を持ってきました。


そんな私が今、「完全母乳という言葉を問い直す」(32まであります)や、「乳児用ミルクのあれこれ」のシリーズの中で、母乳推進運動を批判的に考えています。
(うさぎ林檎さんが「うさりーぬめも」としてまとめてくださいました。ありがとうございます。)


私が考えてきた母乳育児支援に対して、WHO/UNICEFの「母乳育児成功のための10か条」や「母乳代用品のマーケティングに関する国際基準」を強調する母乳推進運動へのもやもや感は何だろうとずっと思ってきたのですが、先日りすさんへのコメントへの返事を書いている中で見えてきました。りすさん、きっかけをありがとうございます。

「哺乳ビン病」として粉ミルク販売を批判したことに始まる母乳推進運動というものは、実はミルクを買わせないための運動になってしまっているのですね。
母乳推進運動あるいは母乳育児支援とミルクを買わせないための政治的運動は切り離して考えるべきなのに、いっしょくたにしたまま使われてきてしまった。

そう、「母乳推進運動」の根底に「ミルクを買わせないための政治的運動」が見えるときに、私は自分がしてきた母乳育児支援とは違うものに感じてしまうのだと思います。


<ミルクを買わせないための政治運動とは何か>


「母乳育児支援スタンダード」(NPO法人日本ラクテーションコンサルタント協会、医学書院、2009年)の「人工乳の世界的普及と国際基準の成立」の中では以下のように書かれています。

(2)開発途上国における"哺乳びん病"の悲劇


 1960年代のアフリカは独立したばかりの新興国家が多く、政府の機関は体制が貧弱なため、乳児栄養や健康問題に対応できる能力も余裕もなかった。缶入りの粉ミルクと哺乳びんは開発途上国の人々にはとっては"近代化・西洋化の象徴"で憧れの的であり、これらの国々に対する多国籍人工乳メーカーの進出を阻むものは何もなかった。ラジオ放送などのマスメディアによる大量宣伝が行われ、医療機関を巻き込んだ巧みな販売戦略が功を奏し、開発途上国の人々は人工乳のほうが優れていると信じ、唯々諾々として母乳育児をやめた。
 その結果、それらの開発途上国で起こったのが「哺乳びん病(bottle baby disease)の悲劇」と呼ばれる惨劇であった。すなわち、人工栄養が原因となり、乳幼児の下痢などの感染症と栄養障害が広がり、それによる乳幼児死亡が激増したのである。


とても説得力がありそうな内容だと思います。
母乳推進運動の中では、どこを切っても金太郎のように必ず耳にする話です。


では、医学用語でもない「哺乳びん病」とは具体的にどのような統計に基づくどのような事実なのかを探してみてもみつかりません。


何故なのでしょうか?
それは「多国籍人工乳メーカー」に鍵があるのだと思います。


1970年代、すでにアメリカでは飽食による肥満や健康への影響が問題になっていました。
片や、開発途上国では飢餓や栄養失調が問題でした。
同じ世界の中で、この飽食と栄養失調、豊かさと貧困の差はどんどんと広がっていく時代でした。


その背景のひとつとして多国籍企業が台頭し始めた時期であり、とくに原料となる農産物などを途上国で安く確保し、安い賃金で製品を作り、市場を広げながら利潤を得ていく大資本のやり方が批判されたのだと思います。


経済のルール作りのための政治運動に、多国籍企業であるネスレ社も標的にされてしまった面があるのではないかと思います。
粉ミルクが途上国の赤ちゃんを殺しているという政治的アピールは、とりわけ豊かさを享受している側の人にとっては、罪悪感とともに心に残ってしまうことでしょう。


でも、本当はどうだったのでしょうか。


1970年代におきたネスレ社の不買運動や、国際基準成立までの経緯を書いたものがほとんど見当たらないのですが、少ない資料や書籍を参考にして当時の様子を考えてみようと思います。




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