裸の王様になるきっかけ

また昨日の続きです。
裸の王様シリーズは、裸の王様に服を着せるのは誰かから始っています。


今回は集団思考に陥りやすい「先行する条件」の最後の部分、「刺激の多い状況に置かれると集団思考に陥りやすい」について考えてみようと思います。


wikipediaの上記リンク先の「集団思考の兆候」を読むと、ここ20〜30年の日本の(あるいは世界の)助産師の動向そのものではないかと、ハッとしました。


・自分たちの集団に対する過大評価

「自然なお産」「昔のお産」の流れの中では、「男性産科医師」「医療介入」に対して助産婦のお産が「温かい」ものであることが強調されました。


昨日の記事で紹介した助産師教育ニュースレターの中にもあるような、いかに国民から助産師のお産が切望されているかということを社会に向けてことあるごとにアピールしてきたのが助産師の集団でした。


いったい現実に、どれくらいの国民が「医師のいない分娩介助」を求めているのでしょうか。


閉ざされた意識、集団による自己弁護

日本の周産期医療は、多くの職種と多様な施設で支えられてきました。
ところが、同じ看護職である診療所勤務の看護師には「内診は違法行為」であると厳しい姿勢を見せつつ、助産所で違法行為の縫合が行われていて禁止するどころか、それが可能であると解釈して法を変えようとする。


助産師の手によるお産だけがすばらしい、という独善性が根強くある集団だといえるでしょう。


「効果」に対する集団の自己満足を妨げる情報が集団に伝わるのを防ぐ

助産師による自然で温かいお産のイメージを壊すような情報は、不思議と出てきません。


助産院や自宅分娩だって、人間がすることですから当然ヒヤリとすることや事故もあることでしょう。
ところがもし私が今、開業しようと決心したとしても、過去のそうしたインシデントレポートを読み、過去の失敗から学ぶための情報を得るルートもありません。


「失敗学」に次のように書かれています。

起こってしまった失敗に対し、責任追及のみに終始せず、(物理的・個人的な)直接原因と(背景・組織的な)根幹原因を追究する

失敗に学び、こうして得られた知識を社会に広め、ほかでも似たような失敗を起こさないように考える
・原因究明
・失敗防止
・知識配布

失敗に学ばないから、またその失敗で得た知識を社会に啓蒙の機会として活用しないから、ホメオパシーで得た教訓を生かせずに裸の王様とその予備軍を生み出し続けているのだと思います。


<「刺激の多い状況」とは>


では、「刺激の多い状況に置かれると集団思考に陥りやすい」の「刺激の多い」というのはどういうことでしょうか?


これを考えるのは、20〜30年あるいは半世紀といった時間の長さで考えないと見えてこないものかもしれません。


1980年から90年代の「自然なお産」の流れに感動し助産師としてのプライドを築いてきた世代には、「あたたかい助産院や自宅分娩を見直そう」という機運が「刺激の多い状況」でした。
すばらしい助産師がいるかのような本や映像での賛美、それが裸の王様になるきっかけになった助産師も多いのではないかと思います。


もう少し歴史を長くみれば、医師のいないお産の場は自然消滅していく流れであっただけのことなのだと思いますが、そういうことさえ目に入らず「自分たちの集団を過大評価」し「閉ざされた意識」に陥ってしまったのではないでしょうか。


こうした歴史の失敗にも学ぶ必要があると思います。