看護基礎教育の大学化 1  <引き返すなら今かもしれない>

「学歴よりも専門職がさらに経験を深めていくための場を」までで、准看護師さんのことや看護教育の大学化について書いてきました。


正直なところ、私自身も「これからの看護師は大学教育に移っていくのか」ぐらいの認識で、あまりこのことを深く考えたこともありませんでした。


少しずつ今までの看護基礎教育の大学化の資料を読むことで、「引き返すなら今ではないか」という思いが強くなってきました。


もちろん私は研究者でもないし看護界の全体の動きを知るような立場にもないので、集められる資料にも限りがありますし、今までたくさんの視点から議論されてきたことを否定するものではありません。


ただ、やはり方向というか目的が違ってしまっているのではないかという気持ちが強くなりつつあります。


GHQ政策・・・アメリカの医療の理想へ向けた変革>


日本の看護教育はこちらの記事で紹介した「占領期における看護制度改革の成果と限界」(平岡敬子氏)にあるように、第二次大戦後、GHQの改革案によって大きく変化しました。


GHQは看護の改革以外に、社会保険制度や公衆衛生の改善に力を入れました。
それがなければ、戦後の国民皆保険制度はなし得なかったでしょうし、予防接種や感染症対策などはどれくらい遅れたことでしょうか。


当時のアメリカ社会が理想とする医療に、GHQは日本の制度を変えていきました。


日本がそのGHQの理想としていた医療制度に近づく反面、そのアメリカは1970年代には医療費高騰のため、医療システムや社会保障制度を大きく変えざるを得なくなりました。


1940年代当時、すでに大学卒の専門看護師、実務看護師に置き換わりつつあったアメリカは、その後どのような看護の方向へと進んだのでしょうか?


アメリカの医療改革と大学看護教育の問題>


そのGHQの医療改革に遅れること30数年、日本でも1992年に「看護婦などの人材確保の促進に関する法律」成立以降、看護大学と大学院が急激に増加していきました。


1980年代以降、私の記憶にある看護界の雰囲気というのは、アメリカに理想的な看護があるかのようにさまざまなアメリカの看護論や方法論が導入されていきました。
たしかに豊富な研究に基づいた合理的なものが多く、日本の個々の臨床経験に基づく方法論とは歴然とした差があると感じました。


ところが、なぜ合理的に感じたのかについては2000年代に入るまで気づきませんでした。
「入院病床削減」「入院期間短縮」という言葉が、日本の医療現場でものしかかってきたときに、初めてアメリカの看護論や方法論はこの目的のためであったのだと気づきました。


たとえば1990年代から臨床に取り入れ始められたクリニカルパスがあります。


もし、虫垂炎の手術が必要になって入院したとします。
入院から退院までどのような処置や検査があるか、何日目はどのような食事があるか、トイレに歩き始めたりシャワーはいつ頃からかなどがひと目でわかるような紙を渡す病院が多いと思います。


患者さんや家族にすればおおよその見通しがたつのでとてもよいものですし、スタッフ間でも標準化されたケアや治療ができるので、とても合理的なものだと当初は感動しました。


ところがその目的はというと、リンク先5ページ目に以下のように書かれています。

アメリカの看護師、サレン・サンダーが中心となって、在院日数の短縮や医師をはじめとしたコメディカル間での連携を強化することを目的に開発され、その後アメリカを始め各国へ普及していきました。


確かに、医療費全体を考えて無駄な入院は少なくする必要はあることでしょう。


1990年代に日本でも、このクリニカルパスの研修会がさかんに開かれていました。
でもその先に、病床削減や入院期間短縮、急性期病床の集約化などの大きな目的が待っているとは思ってもいませんでした。


看護師が患者の入院短縮を目的にした方法論を作り出す、アメリカの医療や看護とはどのようなものなのでしょうか?


GHQが理想とした医療からは大きく変化したアメリカの医療なのに、大学での看護教育化をアメリカに追いつけとばかりに進めることは本当に大丈夫なのだろうか。


今なら引き返せるのではないかと感じるのです。


このあたりの記事から書いてきた産科診療所やそれを支えてきた准看護師さんたちにも深く関わることだと思います。


アメリカの看護の現状について書かれた資料を次回から紹介しながら考えてみようと思います。





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